短歌人を読む

結社誌「短歌人」に掲載された歌を読んで感想を書きます



2010年11月29日月曜日

水泳帽を

夕立が来たりて濡らす物干しに吊られしままの水泳帽を
(太田賢士朗)【短歌人 11月号 89頁】

倒置法とはごく単純な形式で、つまり結末のすり替えである。
倒置法の効果は、その形式よりも、すり替えられた結末=言葉が魅力的かどうかにある。
逆に言えば、すり替えられた結末に魅力がなかったら、倒置法の効果はない。
多少あるとすれば、短歌においては定型におさめるための語の調整である。
さらに逆に言えば、語の調整のための倒置法であっても、意図しない魅力を持つことがないともいえない。

上記の歌は、本来の結末は「濡らす」だが、すり替えられた結末は「水泳帽」。
この結末には、魅力を感じる。
「水泳帽」は特別なアイテムではないが、この歌の中では不思議なものになっている、言葉と言葉の関連によって。

おそらく一般的に、そして予想すれば万葉より、「濡れる」という語はある種の決まった抒情を呼び寄せる。
簡単にいえば「かなしい」という方向の感情だ。
これは「濡れる」という語の歴史と捉えてもいいと思う。

いつの時も「現在」は、その半分は「反歴史」を背負う。
つまり、どうにかして「歴史」から切り離れようとする(という動きがまた歴史を進めていくということにもなるのだろうが)。

で。今回の歌。
この歌を読んだとき、僕が思ったのは「かなしさ」ではなく「とまどい」である。
ということは、この歌に使われた「濡れる(濡らす)」は「歴史」を背負っているのではなく「現在=反歴史」を背負っていると考えられるだろう。
僕の中の、「濡れる」という語が持っている背後の歴史がやわらかく切り取られて、ただ「濡れる」という言葉のみが残される。これがつまり「とまどい」の元だと僕は考えるが、このような効果はどのように生じたのか。

それがすり替えられた結末「水泳帽」からである。
もしこれが「洗濯物」だったとしたら「とまどい」は生まれなかっただろう。むしろ、歴史通りの「かなしさ」の上に乗る「濡れる」になったに違いない(「かなしさ」は「あはれ」でも「残念な気持ち」でもいいがそういう方向の気持ち)。

「水泳帽が濡れる」ということを考えると、変な感じになる。
「洗濯物が濡れる」のは「間違っている」と思うが「水泳帽が濡れる」のは「間違っている」とは言い切れない。
なぜなら「水泳帽」は本来濡れるべきものだからだ。それがたまたま夕立によって、この歌では濡れているのだが、徒労感というほど濃いものではなくても、なんとなく干すという意味や濡れるという意味が曖昧になってしまう。
おそらく作者にも「水泳帽が濡れる」という事象が、一体どういうことなのか、うまく判断できなかった、うまく処理できなかった、その感情がこの歌になったのではないかと思う。

ここで「水泳帽」は「濡れる」という語の歴史・意味をやわらかく付き返している。
この結末に僕は魅力を感じている。





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2010年11月4日木曜日

今も手が黒くなる

空襲に焼かれて炭化せし公孫樹こすれば今も手が黒くなる
(藤間明世)【短歌人 11月号 会員2 102頁】
この歌のポイントは、「今も」。現在形で歌われているところである。

「空襲」は広辞苑で書かれているとおり、
<航空機から機関砲・爆弾・焼夷弾・ミサイルなどで地上目標を襲撃すること。>
のみを意味せず、どうしようもなく「あの戦争」を呼んでしまう。
「あの戦争」とは、第二次世界大戦=太平洋戦争である。

歌われている「公孫樹」は現実空間の公孫樹ではなく、作中主体の内面空間に立つ公孫樹と読む。
あの時、「あの戦争」の最中に焼かれた現実の公孫樹が、戦後六十年余り経っても、作中主体の内面空間に、目の前にくっきりと立っている。あの時に、焼かれたままの状態で。
(おそらく)触れたくはないはずなのに、触れてしまうのは、悪夢と同じで、事態は一向に好転せず、意志を無視してそのような状況に置かれてしまうからだ。(多くの人にとって「あの戦争」とはそのようなものであったに違いない)
そしてついに触れてしまうと、予想していたようにその手は「黒く」なってしまう。
その幻視を作中主体は、繰り返し見る、というより体験する。
この繰り返しの果てしなさが、「今も手が黒くなる」という表現になる。
いつまで経っても過去にならないのだ。

と、ここまで書いて僕は「公孫樹 空襲」でネットに検索をかけてみた。
すると、実際に東京大空襲で焼かれたことにより有名になった公孫樹があるようだ。
となると、この「公孫樹」は作者の個人的な体験、記憶ではなく(と思っていたのだが)、もっと広い社会的な「公孫樹」なのかもしれない。

残念だが、そうなるとこの歌は一挙に、おもしろくなくなる。
社会的に在る情報を元に、作られた歌のように思えてしまう。

実際のことは作者でなければわからないが、僕が感動するのは、知ることができない(他人の)ごくごく個人的な想いに、短歌(言葉)を通じて、かすかでも触れたように思えるときなのだから。





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