短歌人を読む

結社誌「短歌人」に掲載された歌を読んで感想を書きます



2010年10月31日日曜日

あめ色の鮎

あめ色の鮎ふつくらと香ばしく皿にのこりし骨もうつくし
(笠原多香)【短歌人11月号 会員2 90頁】

おもしろい。
一読、作者の視線の詰め方に感心する。
おそらく多くは、食べる前の状態、食べているときの味までしか歌の注意力は届かないのだが、作者は食したあとまでこれが持続した。
これが僕の感心である。
美し、美味し鮎は骨までうつくしい。なんと、食欲が刺激される歌であろうか。

少し、詳しく読んでみよう。
初句から二句にかけての「あめ色の鮎」で、読者の視覚をまず呼び起こし、同時に具体=鮎の提示によって、イメージは絞られる、安定する。
つづけて「ふつくらと香ばしく」の語句、まず「ふつくらと」によって一度安定した視覚イメージは、わずかにゆるみ、ほどけるようにして感覚に立体感が出てくる。
さらに「香ばしく」とあるから、ここで歌は、読者の味覚・嗅覚を撫でてゆくのである。
ここまでで上三句である。以降は下二句であるが、上三句と下二句の間には省略があり、ささやかな省略だが、しかし大胆と僕は思う。
下二句「皿にのこりし骨もうつくし」。
上三句で提示された鮎は、今、既にその姿はもうないと言っている。
ここで、これまで読者を刺激した感覚は手品のようにてのひらの上で消されてしまうのだが、しかし代わりに、意外なものが現われる。
鮎の「骨」である。この骨はおそらく上品に、きれいに食べられたあとの骨で、骨でありながら、鮎のかたちをしっかりと伝えるものだ、と想像できる。
そして作中主体は、これにうつくしさを見て心を奪われる。このとき読者は目を見開く。

僕も目を見開いた。

美味し歌である、実に。





人気ブログランキングへ
おもしろい! と思ったら押してください。
よかった、と思ったら押してください。
応援する気持ちが出来たら押してください。

WebMoney ぷちカンパ
カンパ絶賛受付中!!
カンパされたお金は僕が本を買ったり、
ご飯を食べたりと有意義に使います。
ブログを書く気力も貯まります。

2010年10月26日火曜日

番外:佐々木通代歌集『蜜蜂の箱』

僕は筆不精である。
どういうことか、というと、たとえば手紙を書いていたら、自分で書いた自分の字を見ているうちに、段々と気分が重たくなり、それ以上書くのが嫌になってしまうのである。
字が下手なので、気が滅入ってしまうのだ。
といういわけで僕は筆不精である。

短歌人の佐々木通代さんから歌集『蜜蜂の箱』をいただいた。
本来なら、手紙を書いてお礼を送るべきなのだろうが、上に記したように僕は筆不精である。
なので、この場で感想など書いて、気持ちとしたい。


おそらく一冊の歌集には様々な顔があるに違いないが、『蜜蜂の箱』を読み終わり、僕の心にまずあったのは、静かなもの、だった。
たとえれば(と、たとえるのは決していいことばかりではないが)、朝、まだ靄のかかる川に小舟が一艘こぎだしてゆく、そのときわずかに引いて消える舳先の軌跡のような、静かなもの。
つまり、心に刺さるというよりは、胸からすっと離れていくような感覚がある。
あるいは、読者に共感させるというより、読者と一定の距離を置いたところに歌が立っているというべきか。
この距離というのは、「現実」と「非現実」という距離感ではなく、「日常」と「日常」の距離感なのだが、しかし歌の立っている場所は徹底して「<作者の>日常」であるということだ。

所有の気配のある歌を何首かあげる。
日本語にないなまぐさき母音なりわたしの窓に恋猫が鳴く
まひまひの殻がぽつんと落ちてゐる水無月尽のわたくしの庭
をどりこ草雨をかづきて咲いてをりわたしの犬は立てなくなりぬ
三首目、痛切な歌であるが、おそらく作者は読者にその「痛切」を許さないだろう(「許さない」というほど強い言葉でなくても)。
それは立てなくなったのは、「わたしの」犬であって、「あなたの」あるいはもっと普遍性のある犬ではないからだ。
だからこの痛切さは、やはり徹底的に「わたしの」ものだろう。
またこの歌は、歌集中決して名前を呼ばれない「犬」であるが、この「犬」の個がよく立ち上がってくるいい歌だと思う。

この「わたしの」「わたくしの」という意識が、ひとつ読者との距離を作り、歌の立っている場所が「わたしの」ところであることを示している。

だからといって、この歌集によく「わたし」が出てくるかというと、そういうわけでもない。
むしろ「わたし」が前面に出てこない歌のほうが多い。かなり抑えているのではないか、とすら思う。
整えられた歌が並び、心を出すというより、短歌を出しているというか、短歌のために歌があるきらいがある。
一般的には、それはいいことかもしれないが、個人的には何か破れている歌に惹かれている。

次は僕が、この歌は破れているな、と思って惹かれた歌だ。
ただそこに落ちてゐたから少年は「デカビタ」の瓶投げて壊した
歩けないのは杖がないからさうだよね杖さへあれば杖さがさうね
一首目は、迫力がある。歌集中でも、特に色の違う歌だと思う。
二首目は、母と母を病院へ見舞っている<わたし>という関係の一連の中の一首。初句以外は定型におさまっているが、口語の作用もあって、心があふれてしまった、と読める歌。

また他に時間を越える感覚の歌にも惹かれた。
わたくしを産みたりし夜の雷の鳴りやまざるをふと言ひにけり
にはさきの小春菊に陽はさしていつの日たれかわれを偲ばむ
一首目は、過去のある夜の雷のことだが、それが時間を越えて、今も鳴っているような、そういう時間の越え方がある。
二首目は、今から未来へ時間を越えようとする歌。わたしがいなくなっても、小春菊にさす陽のような透明さでわたしの存在があることを願う歌。
いい歌と思う。

以上、中途半端に書きっぱなしですが、ここいらで。






人気ブログランキングへ
おもしろい! と思ったら押してください。
よかった、と思ったら押してください。
応援する気持ちが出来たら押してください。

WebMoney ぷちカンパ
カンパ絶賛受付中!!
カンパされたお金は僕が本を買ったり、
ご飯を食べたりと有意義に使います。
ブログを書く気力も貯まります。

2010年10月19日火曜日

ピアノを弾こう

寒い寒いと手を合わすまともに祈る神のおわしませぬのに
生の髄を噛みしめて日々生きるそんな猿芝居がある
何が良くて、何が悪いのか久し振りにピアノを弾こう
(篠塚京子)【短歌人 10月号 90頁】

さて。
こういう歌を読むと、短歌を成立させるものは一体何か、ということを考えてしまう。

一首目。僕の読み方(呼吸)では、次のように読んでいる。
「寒い寒いと/手を合わす/まともに祈る/神のおわしませぬのに」
二首目は、
「生の髄を/噛みしめて/日々生きる/そんな猿芝居がある」
あるいは、「猿」と「芝居」の間に少し息継ぎが入って、
「生の髄を/噛みしめて/日々生きる/そんな猿/芝居がある」
三首目は、
「何が良くて、/何が悪いのか/久し振りに/ピアノを弾こう」

以上のように、ほとんど定型に入ってない。野球の球でいえば、ストライクはなく、すべてボール。
ボール球というのは、ほとんど振られることはない。つまり、この歌について何か言おうと思う人はほとんどいないだろう。
しかし、このブログはボール球でも振っていこう、と子供じみているが思うのです。

僕の感想は、
一首目。背景はよくわからない。が、しかし表現としておもしろいところはあると思う。「まともに祈る」の「まともに」など。
二首目。あまりよくない。「噛みしめて~生きる」「猿芝居がある」と手垢がついているというべきか、そういう表現が2つ出てきてしまっている。
三首目。いいと思う。何か、ふわっと風に吹かれて、やんだような、読後感がある。

一首目と三首目は、構造が似ている。
三句目がないということと、語と語の接続(飛び方)が変だということ。
「寒い寒いと手を合わす」→「まともに祈る」(寒いとなぜ祈ることになるのか? しかも「まともに」である)
「何が良くて、何が悪いのか」→「ピアノを弾こう」(なぜピアノを弾くことになるのか?)
この読み手の「なぜ」は、歌のおもしろさのひとつに繋がることもあるポイントになるが、一体どういう「なぜ」がおもしろさに繋がるかは、別に機会があれば考えることにしよう。
一首目より三首目のほうがよく思えるのは、三首目の結句が定型の七音におさまっているところが大きい。読み心地、座り、の分が加点されるのである。
独特さでいえば、一首目のほうが変なところがある。
ちなみに僕が言う「変なところ」は決してマイナスの意味ではない。

短歌を成立させるものは何か。
五・七・五・七・七の定型に嵌っていれば短歌である、と言うことはできるだろうか?
これは、あまり素直に首を縦に振りたくない気持ちが出てくる。

まだ結社に入っていない三年ほど前に僕が考えたのは、実は短歌には定型はなく、音のゆらぎがあるのであって、非常にあいまいなものである。
みんなが定型といっているのは、そのゆらぎの平均線(音のゆらぎが集中し、濃くなるところ)のことである。よって、そんなに定型に縛られる必要はない。
というものだった。

今でもこの考えはそう変わっていないが、強い基準にもならないが、もうひとつ次の考えも加えよう。
それが短歌であるかどうかは、コンテキスト(文脈)によって決まる。
たとえば友達と会話しているときに、言葉がちょうどよく五・七・五・七・七になっていてもそれは短歌ではない。
それが短歌であるためには、内面的には作者の中に短歌に対する意志がなくてはならず、外面的には短歌的場所に発表されていることが必要である。
今回の歌でいえば、定型にはほとんど入っていないが、作者は結社に入り、この歌を結社誌に載せている。というコンテキスト(文脈)が、この歌を短歌にする。





人気ブログランキングへ
おもしろい! と思ったら押してください。
よかった、と思ったら押してください。
応援する気持ちが出来たら押してください。

WebMoney ぷちカンパ
カンパ絶賛受付中!!
カンパされたお金は僕が本を買ったり、
ご飯を食べたりと有意義に使います。
ブログを書く気力も貯まります。

2010年10月13日水曜日

かなしき睫

首ゆらしゆつくり起きて近づきて麒麟はかなしき睫をみせる
(北岡千代子)【短歌人10月号 91頁】

きりんは立ち上がるとき、首をゆっくりゆらすのかどうか、しかと観察したことはないのだが、おそらく歌の通りゆっくりとゆれたのだろう。
作者はそれを見て、描写したのだと、信頼する。

三句目「近づきて」。きりんは何に近づいたのか。
「起きて」と「近づきて」の間に省略されているのはもちろん作中主体の<私>である。
これは短歌的な主体の省略として典型的なものといえるだろう。

歌の中に、おっと思うような表現があると、そのほかの言葉が多少まずくても、気になる歌になる。
この歌でいえば、まずそうなところは、「起きて」「近づきて」の「て」が重なるところで、この「て」は韻律を悪くしているように思う。
良いと思う表現は「かなしき睫」である。

「かなしい瞳」という表現は、よく聞くし、される表現だろう。
「かなしき睫」はこの「かなしい瞳」という表現を更新する。

「かなしき睫」。
この表現を読んだあとでは、「かなしい瞳」のかなしさというのは、どうも瞳ではなく睫からその気配はただよっていたのではないか、と思える。
つまり「かなしい瞳」の「瞳」では、表現として絞り方が甘かったのではないか。

このように、一般に流布しすぎてやや陳腐となってしまった表現でも、まだ表現として更新されるのびしろのあるものは他にもあるかもしれない。
こういうところに気を使って、歌を作っていきたい。





人気ブログランキングへ
おもしろい! と思ったら押してください。
よかった、と思ったら押してください。
応援する気持ちが出来たら押してください。

WebMoney ぷちカンパ
カンパ絶賛受付中!!
カンパされたお金は僕が本を買ったり、
ご飯を食べたりと有意義に使います。
ブログを書く気力も貯まります。

2010年10月7日木曜日

冷蔵庫を見送りおれば

買い替えて運び出されし冷蔵庫を見送りおれば胸痛くなり
(立花マリ子)【短歌人 10月号 95頁】

たとえば「うれしい」とか「かなしい」とか言うけれど、それはとりあえず「うれしい」とか「かなしい」という言葉に、不定形な【ある感情】をあてているのであって、この【ある感情】というのは「うれしい」とか「かなしい」という言葉ですべて表現できるわけではない。
不等号を使って考えてみると、
 【ある感情】 > 感情をあらわす言葉(「うれしい」「かなしい」)
であり、つまり【ある感情】を感情をあらわす言葉(「うれしい」「かなしい」)に変換すると、少なくない、多くの情報が落ちてしまうのである。
日常の場面なら、言葉にすることによって情報が落ちてしまっても、実際に相対していれば、発する人の声の抑揚や表情、人物像などで情報を補完できる。
不等号では、
  【ある感情】 > 感情をあらわす言葉+声の抑揚(聴覚からの情報)+表情(視覚からの情報)...> 感情をあらわす言葉
となり、言葉+他の補完情報で、言葉だけより【ある感情】に近づくことができる。

という説明で、何を言いたかったのかというと、ようするに僕は(我々は)、「うれしい」とか「かなしい」という言葉だけではちっとも、うれしくもかなしくもならないのだ、ということだ。

短歌は、存在するとき、言葉だけで存在する。

言葉だけで存在する短歌というもので、【ある感情】をどのように表現したらいいのか?
上で試みた説明が納得のいくものだとしたら、感情をあらわす言葉だけで表現するのは一番解決に遠い、というのはわかると思う。
かといって言葉以外の補完情報というものを付加することはできない(歌の作者を知っていれば人物像という情報はあるけれど)。

では、今日あげた歌を見てみよう。

買い替えて運び出されし冷蔵庫を見送りおれば胸痛くなり

この歌のかたちに、問いへの答えがある。
つまり、言葉で空間・場面を作り出し、読み手に仮想的に五感を与えて、これに感情をあらわす言葉を添えるのである。

空間・場面は、わかりやすく、不足なく具体的であることがよい。これはあとに添える感情をあらわす言葉は、抽象的になるので、
 抽象+抽象
より、
 具体+抽象
のかたちのほうが、歌が逃げないからである。

「買い替えて運び出されし冷蔵庫を見送りおれば」
場面、具体的である。よし。

「胸痛くなり」
この部分が添えた感情をあらわす言葉であるが「切なくなりて」という言葉でないところがポイントである。
「せつない」よりも「胸が痛い」のほうが身体的であり、つまりわかりやすさ・読み手の追体験度が身体的であるほうが上なのである。よし。

さて。
この歌の、
 具体的な場面を作る+感情をあらわす言葉を添える
というかたちを持って、この歌が良い歌だ、ということではない。
つまり、作り手はこのかたちを持ってさらに一歩を超えなければならない。
そしてこの歌はその一歩を超えている。

それは何か。
この歌を一読して、変な感じを持たなかっただろうか。
僕が感じたのは、
 1+1 = -1
というようなものだ。
普通ならば、買い替えた新しい冷蔵庫に視線が行き、「新品」「機能も最新」→「うれしい」というものだ。
おそらく歌の作中主体もそのように思っていて、新しい冷蔵庫が来ることにウキウキしていたはずであるが、実際に今まで使っていた古い冷蔵庫が業者によって運び出される段になって、自分でも知らなかった、気づいていなかった、古い冷蔵庫への愛着に、急に目覚めたのである。
その思いが「胸痛くなり」という表現になっている。
この、特殊というか、気持ちの外れ方が、この歌の「一歩を超えている」部分である。

もしかしたら詠草にはこの歌の前の歌もあり、そこでは「すごく愛着のある冷蔵庫なのに、壊れてしまって、買い替えなければいけない」というような歌があるかもしれないが、僕は上の読みを提示して、推す。

以上をもって、この歌はよい歌だと僕は思う。





人気ブログランキングへ
おもしろい! と思ったら押してください。
よかった、と思ったら押してください。
応援する気持ちが出来たら押してください。

WebMoney ぷちカンパ
カンパ絶賛受付中!!
カンパされたお金は僕が本を買ったり、
ご飯を食べたりと有意義に使います。
ブログを書く気力も貯まります。

2010年10月4日月曜日

私はゴジラ

原稿を返され納得出来なくて地下鉄で哭く私はゴジラ
(天瀬夕梨絵)【短歌人 10月号 76頁】

この作者は、かなり強い自己意識を持つ歌を作る、と僕は思っている。
天瀬夕梨絵の歌は時にひとりよがりにも思えるし、言葉を振り回しすぎだ、とも思う。
さらに、この人は一体、読み手のことを考えているのだろうか、と思うことすらある。

以上のことは明らかに欠点なのだが、不思議なことに文学では、マイナスがプラスになるという現象が起きることがある。

僕は「短歌人」を読むとき、頭から順に読むのではなく、一回目はだいたい決まった人たちの名前を探して読む。
さて、あの人の今月の歌は何だろう、などとページをめくるわけだ。
その「あの人」たちの中に天瀬夕梨絵がいる。
つまり、楽しみにしているのだ。

なんというか、天瀬夕梨絵の歌は他の並んでいる歌と比べて空気が違う。
何気なく短歌人のページをめくっていても、ずばっと目に飛び込んできたりするのが天瀬夕梨絵の歌である。
ようするに天瀬夕梨絵の歌は実に立つ。
もちろん失敗してるな、と思うこともあるが、しかしこう言うこともできるだろう。
「失敗しないのは凡百の作り手である」
と。

今回あげた歌は、天瀬夕梨絵らしさもありつつ、言葉の振り回し方は読み手をすっとばすほどではなくて、いい歌だと思う。
太く、勢いのある書の払いを見たような、さわやかさを感じた。
「地下鉄で哭く私はゴジラ」なんて、かなりいいんじゃないか。
地下鉄という公共の空間で、人目をはばからず、感情をむき出しにしている作中主体。
それだけだと近寄りがたいが、これを「ゴジラ」という言葉に乗せることによって、コミカルにし、読み手をぎゅっと引っ張る力がある。

この一連の一首目もあげておこう。
わたくしは美貌の女流作家として売り出したいと正直に言う

この「美貌の女流作家」から「ゴジラ」へと躊躇なく変身できる<私>の自在さというか強さというか、がむしゃらさが天瀬夕梨絵の特徴のひとつだろう。





人気ブログランキングへ
おもしろい! と思ったら押してください。
よかった、と思ったら押してください。
応援する気持ちが出来たら押してください。

WebMoney ぷちカンパ
カンパ絶賛受付中!!
カンパされたお金は僕が本を買ったり、
ご飯を食べたりと有意義に使います。
ブログを書く気力も貯まります。