首ゆらしゆつくり起きて近づきて麒麟はかなしき睫をみせる
(北岡千代子)【短歌人10月号 91頁】
きりんは立ち上がるとき、首をゆっくりゆらすのかどうか、しかと観察したことはないのだが、おそらく歌の通りゆっくりとゆれたのだろう。
作者はそれを見て、描写したのだと、信頼する。
三句目「近づきて」。きりんは何に近づいたのか。
「起きて」と「近づきて」の間に省略されているのはもちろん作中主体の<私>である。
これは短歌的な主体の省略として典型的なものといえるだろう。
歌の中に、おっと思うような表現があると、そのほかの言葉が多少まずくても、気になる歌になる。
この歌でいえば、まずそうなところは、「起きて」「近づきて」の「て」が重なるところで、この「て」は韻律を悪くしているように思う。
良いと思う表現は「かなしき睫」である。
「かなしい瞳」という表現は、よく聞くし、される表現だろう。
「かなしき睫」はこの「かなしい瞳」という表現を更新する。
「かなしき睫」。
この表現を読んだあとでは、「かなしい瞳」のかなしさというのは、どうも瞳ではなく睫からその気配はただよっていたのではないか、と思える。
つまり「かなしい瞳」の「瞳」では、表現として絞り方が甘かったのではないか。
このように、一般に流布しすぎてやや陳腐となってしまった表現でも、まだ表現として更新されるのびしろのあるものは他にもあるかもしれない。
こういうところに気を使って、歌を作っていきたい。
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