短歌人を読む

結社誌「短歌人」に掲載された歌を読んで感想を書きます



2010年12月31日金曜日

未完/蜜柑

浮かびきた未完という語に感覚は 併せて小さな蜜柑を一つ
(渡邊綺子)【短歌人12月号 会員2 78頁】

観察は、外だけでなく内にも向く。
この歌は「考える」こと自体を観察した歌と僕は読んだ。
いや「考える」というほど固まっていない、もっとやわらかい、まだ文章にもならず、言葉が立ち上がろうとしている、言語のぬかるみの領域と言ったほうがいいか。

「未完」という言葉が頭に浮かんだ。
普通はここで終わりだが、作中主体の<私>はここで、言葉の発生する時間・感覚を微分して、言語のぬかるみを観察した。
すると、頭には浮かばずに捨て去られた言葉を発見する。ここではそれが「蜜柑」であった。
自分が知らずに捨て去った言葉を、さらに掬いだす。
すると、このような歌になる。

この歌によって、自分が知らずに捨て去っている言葉があることに気づかされる。

また次のようなことも考える。
背後の文脈がまったくない場合に、形態素「mikan」が「未完(mikan)」となるのか「蜜柑(mikan)」となるのか、私たちは一体どのように導き出すのだろうか?
答えは出ないが、答えの出ないその問いに、少しの間、自分の思考を漂わせたくなる。





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2010年12月21日火曜日

モーセの十戒猪八戒

声立てて一人笑ひしておどろきぬモーセの十戒猪八戒
(荒垣章子)【短歌人12月号 会員2 73頁】

「声立てて一人笑ひして」いる自分にはたと気づき、驚いたのだと言う。
自分が他人のようだ、というほどではなくても、自分で自分に驚く、ということはある。
声立てて一人笑いしている自分と、おどろいている自分と、登場人物は一人だが、ここには微妙な差異を持って、異なる自分が同居している。

と読んでもみたが、単純に、「一人笑ひして」のち「おどろ」いた、と読むのが妥当だろうか。

問題としたいのは「モーセの十戒猪八戒」である。
これを読んで意味のわかる人がどれだけいるだろうか。
この歌はある背景を持っている。

小池光の『山鳩集』に、
モーゼに十戒あり ゐのししに八戒あり 三蔵法師のしもべ
(『山鳩集』 224頁)
という一首があり、この歌が背景にある。たぶん。

つまり、この歌は、歌から作られた歌である、と読める。オオゲサに言えば、歌の唱和である。
そう読むことがおもしろい。これは、歌そのもののおもしろさとは別のところかもしれないが、読み手としてくすぐられるものがある。

しかし、背景となる歌を引いてみると、この歌の下句は、
モーゼの十戒ゐのしし八戒
としたほうが、よいのではないかと思う。





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