声立てて一人笑ひしておどろきぬモーセの十戒猪八戒
(荒垣章子)【短歌人12月号 会員2 73頁】
「声立てて一人笑ひして」いる自分にはたと気づき、驚いたのだと言う。
自分が他人のようだ、というほどではなくても、自分で自分に驚く、ということはある。
声立てて一人笑いしている自分と、おどろいている自分と、登場人物は一人だが、ここには微妙な差異を持って、異なる自分が同居している。
と読んでもみたが、単純に、「一人笑ひして」のち「おどろ」いた、と読むのが妥当だろうか。
問題としたいのは「モーセの十戒猪八戒」である。
これを読んで意味のわかる人がどれだけいるだろうか。
この歌はある背景を持っている。
小池光の『山鳩集』に、
モーゼに十戒あり ゐのししに八戒あり 三蔵法師のしもべ
(『山鳩集』 224頁)という一首があり、この歌が背景にある。たぶん。
つまり、この歌は、歌から作られた歌である、と読める。オオゲサに言えば、歌の唱和である。
そう読むことがおもしろい。これは、歌そのもののおもしろさとは別のところかもしれないが、読み手としてくすぐられるものがある。
しかし、背景となる歌を引いてみると、この歌の下句は、
モーゼの十戒ゐのしし八戒としたほうが、よいのではないかと思う。
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