浮かびきた未完という語に感覚は 併せて小さな蜜柑を一つ
(渡邊綺子)【短歌人12月号 会員2 78頁】
観察は、外だけでなく内にも向く。
この歌は「考える」こと自体を観察した歌と僕は読んだ。
いや「考える」というほど固まっていない、もっとやわらかい、まだ文章にもならず、言葉が立ち上がろうとしている、言語のぬかるみの領域と言ったほうがいいか。
「未完」という言葉が頭に浮かんだ。
普通はここで終わりだが、作中主体の<私>はここで、言葉の発生する時間・感覚を微分して、言語のぬかるみを観察した。
すると、頭には浮かばずに捨て去られた言葉を発見する。ここではそれが「蜜柑」であった。
自分が知らずに捨て去った言葉を、さらに掬いだす。
すると、このような歌になる。
この歌によって、自分が知らずに捨て去っている言葉があることに気づかされる。
また次のようなことも考える。
背後の文脈がまったくない場合に、形態素「mikan」が「未完(mikan)」となるのか「蜜柑(mikan)」となるのか、私たちは一体どのように導き出すのだろうか?
答えは出ないが、答えの出ないその問いに、少しの間、自分の思考を漂わせたくなる。
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