寒い寒いと手を合わすまともに祈る神のおわしませぬのに
生の髄を噛みしめて日々生きるそんな猿芝居がある
何が良くて、何が悪いのか久し振りにピアノを弾こう
(篠塚京子)【短歌人 10月号 90頁】
さて。
こういう歌を読むと、短歌を成立させるものは一体何か、ということを考えてしまう。
一首目。僕の読み方(呼吸)では、次のように読んでいる。
「寒い寒いと/手を合わす/まともに祈る/神のおわしませぬのに」
二首目は、
「生の髄を/噛みしめて/日々生きる/そんな猿芝居がある」
あるいは、「猿」と「芝居」の間に少し息継ぎが入って、
「生の髄を/噛みしめて/日々生きる/そんな猿/芝居がある」
三首目は、
「何が良くて、/何が悪いのか/久し振りに/ピアノを弾こう」
以上のように、ほとんど定型に入ってない。野球の球でいえば、ストライクはなく、すべてボール。
ボール球というのは、ほとんど振られることはない。つまり、この歌について何か言おうと思う人はほとんどいないだろう。
しかし、このブログはボール球でも振っていこう、と子供じみているが思うのです。
僕の感想は、
一首目。背景はよくわからない。が、しかし表現としておもしろいところはあると思う。「まともに祈る」の「まともに」など。
二首目。あまりよくない。「噛みしめて~生きる」「猿芝居がある」と手垢がついているというべきか、そういう表現が2つ出てきてしまっている。
三首目。いいと思う。何か、ふわっと風に吹かれて、やんだような、読後感がある。
一首目と三首目は、構造が似ている。
三句目がないということと、語と語の接続(飛び方)が変だということ。
「寒い寒いと手を合わす」→「まともに祈る」(寒いとなぜ祈ることになるのか? しかも「まともに」である)
「何が良くて、何が悪いのか」→「ピアノを弾こう」(なぜピアノを弾くことになるのか?)
この読み手の「なぜ」は、歌のおもしろさのひとつに繋がることもあるポイントになるが、一体どういう「なぜ」がおもしろさに繋がるかは、別に機会があれば考えることにしよう。
一首目より三首目のほうがよく思えるのは、三首目の結句が定型の七音におさまっているところが大きい。読み心地、座り、の分が加点されるのである。
独特さでいえば、一首目のほうが変なところがある。
ちなみに僕が言う「変なところ」は決してマイナスの意味ではない。
短歌を成立させるものは何か。
五・七・五・七・七の定型に嵌っていれば短歌である、と言うことはできるだろうか?
これは、あまり素直に首を縦に振りたくない気持ちが出てくる。
まだ結社に入っていない三年ほど前に僕が考えたのは、実は短歌には定型はなく、音のゆらぎがあるのであって、非常にあいまいなものである。
みんなが定型といっているのは、そのゆらぎの平均線(音のゆらぎが集中し、濃くなるところ)のことである。よって、そんなに定型に縛られる必要はない。
というものだった。
今でもこの考えはそう変わっていないが、強い基準にもならないが、もうひとつ次の考えも加えよう。
それが短歌であるかどうかは、コンテキスト(文脈)によって決まる。
たとえば友達と会話しているときに、言葉がちょうどよく五・七・五・七・七になっていてもそれは短歌ではない。
それが短歌であるためには、内面的には作者の中に短歌に対する意志がなくてはならず、外面的には短歌的場所に発表されていることが必要である。
今回の歌でいえば、定型にはほとんど入っていないが、作者は結社に入り、この歌を結社誌に載せている。というコンテキスト(文脈)が、この歌を短歌にする。
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