短歌人を読む

結社誌「短歌人」に掲載された歌を読んで感想を書きます



2010年12月31日金曜日

未完/蜜柑

浮かびきた未完という語に感覚は 併せて小さな蜜柑を一つ
(渡邊綺子)【短歌人12月号 会員2 78頁】

観察は、外だけでなく内にも向く。
この歌は「考える」こと自体を観察した歌と僕は読んだ。
いや「考える」というほど固まっていない、もっとやわらかい、まだ文章にもならず、言葉が立ち上がろうとしている、言語のぬかるみの領域と言ったほうがいいか。

「未完」という言葉が頭に浮かんだ。
普通はここで終わりだが、作中主体の<私>はここで、言葉の発生する時間・感覚を微分して、言語のぬかるみを観察した。
すると、頭には浮かばずに捨て去られた言葉を発見する。ここではそれが「蜜柑」であった。
自分が知らずに捨て去った言葉を、さらに掬いだす。
すると、このような歌になる。

この歌によって、自分が知らずに捨て去っている言葉があることに気づかされる。

また次のようなことも考える。
背後の文脈がまったくない場合に、形態素「mikan」が「未完(mikan)」となるのか「蜜柑(mikan)」となるのか、私たちは一体どのように導き出すのだろうか?
答えは出ないが、答えの出ないその問いに、少しの間、自分の思考を漂わせたくなる。





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2010年12月21日火曜日

モーセの十戒猪八戒

声立てて一人笑ひしておどろきぬモーセの十戒猪八戒
(荒垣章子)【短歌人12月号 会員2 73頁】

「声立てて一人笑ひして」いる自分にはたと気づき、驚いたのだと言う。
自分が他人のようだ、というほどではなくても、自分で自分に驚く、ということはある。
声立てて一人笑いしている自分と、おどろいている自分と、登場人物は一人だが、ここには微妙な差異を持って、異なる自分が同居している。

と読んでもみたが、単純に、「一人笑ひして」のち「おどろ」いた、と読むのが妥当だろうか。

問題としたいのは「モーセの十戒猪八戒」である。
これを読んで意味のわかる人がどれだけいるだろうか。
この歌はある背景を持っている。

小池光の『山鳩集』に、
モーゼに十戒あり ゐのししに八戒あり 三蔵法師のしもべ
(『山鳩集』 224頁)
という一首があり、この歌が背景にある。たぶん。

つまり、この歌は、歌から作られた歌である、と読める。オオゲサに言えば、歌の唱和である。
そう読むことがおもしろい。これは、歌そのもののおもしろさとは別のところかもしれないが、読み手としてくすぐられるものがある。

しかし、背景となる歌を引いてみると、この歌の下句は、
モーゼの十戒ゐのしし八戒
としたほうが、よいのではないかと思う。





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2010年11月29日月曜日

水泳帽を

夕立が来たりて濡らす物干しに吊られしままの水泳帽を
(太田賢士朗)【短歌人 11月号 89頁】

倒置法とはごく単純な形式で、つまり結末のすり替えである。
倒置法の効果は、その形式よりも、すり替えられた結末=言葉が魅力的かどうかにある。
逆に言えば、すり替えられた結末に魅力がなかったら、倒置法の効果はない。
多少あるとすれば、短歌においては定型におさめるための語の調整である。
さらに逆に言えば、語の調整のための倒置法であっても、意図しない魅力を持つことがないともいえない。

上記の歌は、本来の結末は「濡らす」だが、すり替えられた結末は「水泳帽」。
この結末には、魅力を感じる。
「水泳帽」は特別なアイテムではないが、この歌の中では不思議なものになっている、言葉と言葉の関連によって。

おそらく一般的に、そして予想すれば万葉より、「濡れる」という語はある種の決まった抒情を呼び寄せる。
簡単にいえば「かなしい」という方向の感情だ。
これは「濡れる」という語の歴史と捉えてもいいと思う。

いつの時も「現在」は、その半分は「反歴史」を背負う。
つまり、どうにかして「歴史」から切り離れようとする(という動きがまた歴史を進めていくということにもなるのだろうが)。

で。今回の歌。
この歌を読んだとき、僕が思ったのは「かなしさ」ではなく「とまどい」である。
ということは、この歌に使われた「濡れる(濡らす)」は「歴史」を背負っているのではなく「現在=反歴史」を背負っていると考えられるだろう。
僕の中の、「濡れる」という語が持っている背後の歴史がやわらかく切り取られて、ただ「濡れる」という言葉のみが残される。これがつまり「とまどい」の元だと僕は考えるが、このような効果はどのように生じたのか。

それがすり替えられた結末「水泳帽」からである。
もしこれが「洗濯物」だったとしたら「とまどい」は生まれなかっただろう。むしろ、歴史通りの「かなしさ」の上に乗る「濡れる」になったに違いない(「かなしさ」は「あはれ」でも「残念な気持ち」でもいいがそういう方向の気持ち)。

「水泳帽が濡れる」ということを考えると、変な感じになる。
「洗濯物が濡れる」のは「間違っている」と思うが「水泳帽が濡れる」のは「間違っている」とは言い切れない。
なぜなら「水泳帽」は本来濡れるべきものだからだ。それがたまたま夕立によって、この歌では濡れているのだが、徒労感というほど濃いものではなくても、なんとなく干すという意味や濡れるという意味が曖昧になってしまう。
おそらく作者にも「水泳帽が濡れる」という事象が、一体どういうことなのか、うまく判断できなかった、うまく処理できなかった、その感情がこの歌になったのではないかと思う。

ここで「水泳帽」は「濡れる」という語の歴史・意味をやわらかく付き返している。
この結末に僕は魅力を感じている。





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2010年11月4日木曜日

今も手が黒くなる

空襲に焼かれて炭化せし公孫樹こすれば今も手が黒くなる
(藤間明世)【短歌人 11月号 会員2 102頁】
この歌のポイントは、「今も」。現在形で歌われているところである。

「空襲」は広辞苑で書かれているとおり、
<航空機から機関砲・爆弾・焼夷弾・ミサイルなどで地上目標を襲撃すること。>
のみを意味せず、どうしようもなく「あの戦争」を呼んでしまう。
「あの戦争」とは、第二次世界大戦=太平洋戦争である。

歌われている「公孫樹」は現実空間の公孫樹ではなく、作中主体の内面空間に立つ公孫樹と読む。
あの時、「あの戦争」の最中に焼かれた現実の公孫樹が、戦後六十年余り経っても、作中主体の内面空間に、目の前にくっきりと立っている。あの時に、焼かれたままの状態で。
(おそらく)触れたくはないはずなのに、触れてしまうのは、悪夢と同じで、事態は一向に好転せず、意志を無視してそのような状況に置かれてしまうからだ。(多くの人にとって「あの戦争」とはそのようなものであったに違いない)
そしてついに触れてしまうと、予想していたようにその手は「黒く」なってしまう。
その幻視を作中主体は、繰り返し見る、というより体験する。
この繰り返しの果てしなさが、「今も手が黒くなる」という表現になる。
いつまで経っても過去にならないのだ。

と、ここまで書いて僕は「公孫樹 空襲」でネットに検索をかけてみた。
すると、実際に東京大空襲で焼かれたことにより有名になった公孫樹があるようだ。
となると、この「公孫樹」は作者の個人的な体験、記憶ではなく(と思っていたのだが)、もっと広い社会的な「公孫樹」なのかもしれない。

残念だが、そうなるとこの歌は一挙に、おもしろくなくなる。
社会的に在る情報を元に、作られた歌のように思えてしまう。

実際のことは作者でなければわからないが、僕が感動するのは、知ることができない(他人の)ごくごく個人的な想いに、短歌(言葉)を通じて、かすかでも触れたように思えるときなのだから。





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2010年10月31日日曜日

あめ色の鮎

あめ色の鮎ふつくらと香ばしく皿にのこりし骨もうつくし
(笠原多香)【短歌人11月号 会員2 90頁】

おもしろい。
一読、作者の視線の詰め方に感心する。
おそらく多くは、食べる前の状態、食べているときの味までしか歌の注意力は届かないのだが、作者は食したあとまでこれが持続した。
これが僕の感心である。
美し、美味し鮎は骨までうつくしい。なんと、食欲が刺激される歌であろうか。

少し、詳しく読んでみよう。
初句から二句にかけての「あめ色の鮎」で、読者の視覚をまず呼び起こし、同時に具体=鮎の提示によって、イメージは絞られる、安定する。
つづけて「ふつくらと香ばしく」の語句、まず「ふつくらと」によって一度安定した視覚イメージは、わずかにゆるみ、ほどけるようにして感覚に立体感が出てくる。
さらに「香ばしく」とあるから、ここで歌は、読者の味覚・嗅覚を撫でてゆくのである。
ここまでで上三句である。以降は下二句であるが、上三句と下二句の間には省略があり、ささやかな省略だが、しかし大胆と僕は思う。
下二句「皿にのこりし骨もうつくし」。
上三句で提示された鮎は、今、既にその姿はもうないと言っている。
ここで、これまで読者を刺激した感覚は手品のようにてのひらの上で消されてしまうのだが、しかし代わりに、意外なものが現われる。
鮎の「骨」である。この骨はおそらく上品に、きれいに食べられたあとの骨で、骨でありながら、鮎のかたちをしっかりと伝えるものだ、と想像できる。
そして作中主体は、これにうつくしさを見て心を奪われる。このとき読者は目を見開く。

僕も目を見開いた。

美味し歌である、実に。





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2010年10月26日火曜日

番外:佐々木通代歌集『蜜蜂の箱』

僕は筆不精である。
どういうことか、というと、たとえば手紙を書いていたら、自分で書いた自分の字を見ているうちに、段々と気分が重たくなり、それ以上書くのが嫌になってしまうのである。
字が下手なので、気が滅入ってしまうのだ。
といういわけで僕は筆不精である。

短歌人の佐々木通代さんから歌集『蜜蜂の箱』をいただいた。
本来なら、手紙を書いてお礼を送るべきなのだろうが、上に記したように僕は筆不精である。
なので、この場で感想など書いて、気持ちとしたい。


おそらく一冊の歌集には様々な顔があるに違いないが、『蜜蜂の箱』を読み終わり、僕の心にまずあったのは、静かなもの、だった。
たとえれば(と、たとえるのは決していいことばかりではないが)、朝、まだ靄のかかる川に小舟が一艘こぎだしてゆく、そのときわずかに引いて消える舳先の軌跡のような、静かなもの。
つまり、心に刺さるというよりは、胸からすっと離れていくような感覚がある。
あるいは、読者に共感させるというより、読者と一定の距離を置いたところに歌が立っているというべきか。
この距離というのは、「現実」と「非現実」という距離感ではなく、「日常」と「日常」の距離感なのだが、しかし歌の立っている場所は徹底して「<作者の>日常」であるということだ。

所有の気配のある歌を何首かあげる。
日本語にないなまぐさき母音なりわたしの窓に恋猫が鳴く
まひまひの殻がぽつんと落ちてゐる水無月尽のわたくしの庭
をどりこ草雨をかづきて咲いてをりわたしの犬は立てなくなりぬ
三首目、痛切な歌であるが、おそらく作者は読者にその「痛切」を許さないだろう(「許さない」というほど強い言葉でなくても)。
それは立てなくなったのは、「わたしの」犬であって、「あなたの」あるいはもっと普遍性のある犬ではないからだ。
だからこの痛切さは、やはり徹底的に「わたしの」ものだろう。
またこの歌は、歌集中決して名前を呼ばれない「犬」であるが、この「犬」の個がよく立ち上がってくるいい歌だと思う。

この「わたしの」「わたくしの」という意識が、ひとつ読者との距離を作り、歌の立っている場所が「わたしの」ところであることを示している。

だからといって、この歌集によく「わたし」が出てくるかというと、そういうわけでもない。
むしろ「わたし」が前面に出てこない歌のほうが多い。かなり抑えているのではないか、とすら思う。
整えられた歌が並び、心を出すというより、短歌を出しているというか、短歌のために歌があるきらいがある。
一般的には、それはいいことかもしれないが、個人的には何か破れている歌に惹かれている。

次は僕が、この歌は破れているな、と思って惹かれた歌だ。
ただそこに落ちてゐたから少年は「デカビタ」の瓶投げて壊した
歩けないのは杖がないからさうだよね杖さへあれば杖さがさうね
一首目は、迫力がある。歌集中でも、特に色の違う歌だと思う。
二首目は、母と母を病院へ見舞っている<わたし>という関係の一連の中の一首。初句以外は定型におさまっているが、口語の作用もあって、心があふれてしまった、と読める歌。

また他に時間を越える感覚の歌にも惹かれた。
わたくしを産みたりし夜の雷の鳴りやまざるをふと言ひにけり
にはさきの小春菊に陽はさしていつの日たれかわれを偲ばむ
一首目は、過去のある夜の雷のことだが、それが時間を越えて、今も鳴っているような、そういう時間の越え方がある。
二首目は、今から未来へ時間を越えようとする歌。わたしがいなくなっても、小春菊にさす陽のような透明さでわたしの存在があることを願う歌。
いい歌と思う。

以上、中途半端に書きっぱなしですが、ここいらで。






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2010年10月19日火曜日

ピアノを弾こう

寒い寒いと手を合わすまともに祈る神のおわしませぬのに
生の髄を噛みしめて日々生きるそんな猿芝居がある
何が良くて、何が悪いのか久し振りにピアノを弾こう
(篠塚京子)【短歌人 10月号 90頁】

さて。
こういう歌を読むと、短歌を成立させるものは一体何か、ということを考えてしまう。

一首目。僕の読み方(呼吸)では、次のように読んでいる。
「寒い寒いと/手を合わす/まともに祈る/神のおわしませぬのに」
二首目は、
「生の髄を/噛みしめて/日々生きる/そんな猿芝居がある」
あるいは、「猿」と「芝居」の間に少し息継ぎが入って、
「生の髄を/噛みしめて/日々生きる/そんな猿/芝居がある」
三首目は、
「何が良くて、/何が悪いのか/久し振りに/ピアノを弾こう」

以上のように、ほとんど定型に入ってない。野球の球でいえば、ストライクはなく、すべてボール。
ボール球というのは、ほとんど振られることはない。つまり、この歌について何か言おうと思う人はほとんどいないだろう。
しかし、このブログはボール球でも振っていこう、と子供じみているが思うのです。

僕の感想は、
一首目。背景はよくわからない。が、しかし表現としておもしろいところはあると思う。「まともに祈る」の「まともに」など。
二首目。あまりよくない。「噛みしめて~生きる」「猿芝居がある」と手垢がついているというべきか、そういう表現が2つ出てきてしまっている。
三首目。いいと思う。何か、ふわっと風に吹かれて、やんだような、読後感がある。

一首目と三首目は、構造が似ている。
三句目がないということと、語と語の接続(飛び方)が変だということ。
「寒い寒いと手を合わす」→「まともに祈る」(寒いとなぜ祈ることになるのか? しかも「まともに」である)
「何が良くて、何が悪いのか」→「ピアノを弾こう」(なぜピアノを弾くことになるのか?)
この読み手の「なぜ」は、歌のおもしろさのひとつに繋がることもあるポイントになるが、一体どういう「なぜ」がおもしろさに繋がるかは、別に機会があれば考えることにしよう。
一首目より三首目のほうがよく思えるのは、三首目の結句が定型の七音におさまっているところが大きい。読み心地、座り、の分が加点されるのである。
独特さでいえば、一首目のほうが変なところがある。
ちなみに僕が言う「変なところ」は決してマイナスの意味ではない。

短歌を成立させるものは何か。
五・七・五・七・七の定型に嵌っていれば短歌である、と言うことはできるだろうか?
これは、あまり素直に首を縦に振りたくない気持ちが出てくる。

まだ結社に入っていない三年ほど前に僕が考えたのは、実は短歌には定型はなく、音のゆらぎがあるのであって、非常にあいまいなものである。
みんなが定型といっているのは、そのゆらぎの平均線(音のゆらぎが集中し、濃くなるところ)のことである。よって、そんなに定型に縛られる必要はない。
というものだった。

今でもこの考えはそう変わっていないが、強い基準にもならないが、もうひとつ次の考えも加えよう。
それが短歌であるかどうかは、コンテキスト(文脈)によって決まる。
たとえば友達と会話しているときに、言葉がちょうどよく五・七・五・七・七になっていてもそれは短歌ではない。
それが短歌であるためには、内面的には作者の中に短歌に対する意志がなくてはならず、外面的には短歌的場所に発表されていることが必要である。
今回の歌でいえば、定型にはほとんど入っていないが、作者は結社に入り、この歌を結社誌に載せている。というコンテキスト(文脈)が、この歌を短歌にする。





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2010年10月13日水曜日

かなしき睫

首ゆらしゆつくり起きて近づきて麒麟はかなしき睫をみせる
(北岡千代子)【短歌人10月号 91頁】

きりんは立ち上がるとき、首をゆっくりゆらすのかどうか、しかと観察したことはないのだが、おそらく歌の通りゆっくりとゆれたのだろう。
作者はそれを見て、描写したのだと、信頼する。

三句目「近づきて」。きりんは何に近づいたのか。
「起きて」と「近づきて」の間に省略されているのはもちろん作中主体の<私>である。
これは短歌的な主体の省略として典型的なものといえるだろう。

歌の中に、おっと思うような表現があると、そのほかの言葉が多少まずくても、気になる歌になる。
この歌でいえば、まずそうなところは、「起きて」「近づきて」の「て」が重なるところで、この「て」は韻律を悪くしているように思う。
良いと思う表現は「かなしき睫」である。

「かなしい瞳」という表現は、よく聞くし、される表現だろう。
「かなしき睫」はこの「かなしい瞳」という表現を更新する。

「かなしき睫」。
この表現を読んだあとでは、「かなしい瞳」のかなしさというのは、どうも瞳ではなく睫からその気配はただよっていたのではないか、と思える。
つまり「かなしい瞳」の「瞳」では、表現として絞り方が甘かったのではないか。

このように、一般に流布しすぎてやや陳腐となってしまった表現でも、まだ表現として更新されるのびしろのあるものは他にもあるかもしれない。
こういうところに気を使って、歌を作っていきたい。





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2010年10月7日木曜日

冷蔵庫を見送りおれば

買い替えて運び出されし冷蔵庫を見送りおれば胸痛くなり
(立花マリ子)【短歌人 10月号 95頁】

たとえば「うれしい」とか「かなしい」とか言うけれど、それはとりあえず「うれしい」とか「かなしい」という言葉に、不定形な【ある感情】をあてているのであって、この【ある感情】というのは「うれしい」とか「かなしい」という言葉ですべて表現できるわけではない。
不等号を使って考えてみると、
 【ある感情】 > 感情をあらわす言葉(「うれしい」「かなしい」)
であり、つまり【ある感情】を感情をあらわす言葉(「うれしい」「かなしい」)に変換すると、少なくない、多くの情報が落ちてしまうのである。
日常の場面なら、言葉にすることによって情報が落ちてしまっても、実際に相対していれば、発する人の声の抑揚や表情、人物像などで情報を補完できる。
不等号では、
  【ある感情】 > 感情をあらわす言葉+声の抑揚(聴覚からの情報)+表情(視覚からの情報)...> 感情をあらわす言葉
となり、言葉+他の補完情報で、言葉だけより【ある感情】に近づくことができる。

という説明で、何を言いたかったのかというと、ようするに僕は(我々は)、「うれしい」とか「かなしい」という言葉だけではちっとも、うれしくもかなしくもならないのだ、ということだ。

短歌は、存在するとき、言葉だけで存在する。

言葉だけで存在する短歌というもので、【ある感情】をどのように表現したらいいのか?
上で試みた説明が納得のいくものだとしたら、感情をあらわす言葉だけで表現するのは一番解決に遠い、というのはわかると思う。
かといって言葉以外の補完情報というものを付加することはできない(歌の作者を知っていれば人物像という情報はあるけれど)。

では、今日あげた歌を見てみよう。

買い替えて運び出されし冷蔵庫を見送りおれば胸痛くなり

この歌のかたちに、問いへの答えがある。
つまり、言葉で空間・場面を作り出し、読み手に仮想的に五感を与えて、これに感情をあらわす言葉を添えるのである。

空間・場面は、わかりやすく、不足なく具体的であることがよい。これはあとに添える感情をあらわす言葉は、抽象的になるので、
 抽象+抽象
より、
 具体+抽象
のかたちのほうが、歌が逃げないからである。

「買い替えて運び出されし冷蔵庫を見送りおれば」
場面、具体的である。よし。

「胸痛くなり」
この部分が添えた感情をあらわす言葉であるが「切なくなりて」という言葉でないところがポイントである。
「せつない」よりも「胸が痛い」のほうが身体的であり、つまりわかりやすさ・読み手の追体験度が身体的であるほうが上なのである。よし。

さて。
この歌の、
 具体的な場面を作る+感情をあらわす言葉を添える
というかたちを持って、この歌が良い歌だ、ということではない。
つまり、作り手はこのかたちを持ってさらに一歩を超えなければならない。
そしてこの歌はその一歩を超えている。

それは何か。
この歌を一読して、変な感じを持たなかっただろうか。
僕が感じたのは、
 1+1 = -1
というようなものだ。
普通ならば、買い替えた新しい冷蔵庫に視線が行き、「新品」「機能も最新」→「うれしい」というものだ。
おそらく歌の作中主体もそのように思っていて、新しい冷蔵庫が来ることにウキウキしていたはずであるが、実際に今まで使っていた古い冷蔵庫が業者によって運び出される段になって、自分でも知らなかった、気づいていなかった、古い冷蔵庫への愛着に、急に目覚めたのである。
その思いが「胸痛くなり」という表現になっている。
この、特殊というか、気持ちの外れ方が、この歌の「一歩を超えている」部分である。

もしかしたら詠草にはこの歌の前の歌もあり、そこでは「すごく愛着のある冷蔵庫なのに、壊れてしまって、買い替えなければいけない」というような歌があるかもしれないが、僕は上の読みを提示して、推す。

以上をもって、この歌はよい歌だと僕は思う。





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2010年10月4日月曜日

私はゴジラ

原稿を返され納得出来なくて地下鉄で哭く私はゴジラ
(天瀬夕梨絵)【短歌人 10月号 76頁】

この作者は、かなり強い自己意識を持つ歌を作る、と僕は思っている。
天瀬夕梨絵の歌は時にひとりよがりにも思えるし、言葉を振り回しすぎだ、とも思う。
さらに、この人は一体、読み手のことを考えているのだろうか、と思うことすらある。

以上のことは明らかに欠点なのだが、不思議なことに文学では、マイナスがプラスになるという現象が起きることがある。

僕は「短歌人」を読むとき、頭から順に読むのではなく、一回目はだいたい決まった人たちの名前を探して読む。
さて、あの人の今月の歌は何だろう、などとページをめくるわけだ。
その「あの人」たちの中に天瀬夕梨絵がいる。
つまり、楽しみにしているのだ。

なんというか、天瀬夕梨絵の歌は他の並んでいる歌と比べて空気が違う。
何気なく短歌人のページをめくっていても、ずばっと目に飛び込んできたりするのが天瀬夕梨絵の歌である。
ようするに天瀬夕梨絵の歌は実に立つ。
もちろん失敗してるな、と思うこともあるが、しかしこう言うこともできるだろう。
「失敗しないのは凡百の作り手である」
と。

今回あげた歌は、天瀬夕梨絵らしさもありつつ、言葉の振り回し方は読み手をすっとばすほどではなくて、いい歌だと思う。
太く、勢いのある書の払いを見たような、さわやかさを感じた。
「地下鉄で哭く私はゴジラ」なんて、かなりいいんじゃないか。
地下鉄という公共の空間で、人目をはばからず、感情をむき出しにしている作中主体。
それだけだと近寄りがたいが、これを「ゴジラ」という言葉に乗せることによって、コミカルにし、読み手をぎゅっと引っ張る力がある。

この一連の一首目もあげておこう。
わたくしは美貌の女流作家として売り出したいと正直に言う

この「美貌の女流作家」から「ゴジラ」へと躊躇なく変身できる<私>の自在さというか強さというか、がむしゃらさが天瀬夕梨絵の特徴のひとつだろう。





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2010年9月29日水曜日

梅雨の夜な夜な/キャサリン

妻子らの寝入るを待ちて水虫の処置をするなり梅雨の夜な夜な
(平田栄一)【短歌人 10月号 83頁】

この歌には、「ユーモア」と「かなしみ」がある。
梅雨の、ちょっと暗めな感じと、顔を上げるというよりは下げる雰囲気、実際に作中の主体は自らの足の爪へと視線を落としているに違いないのだが、つまり、その光景と感じ。
さらに妻と子から隠れるようにして、男は「水虫の処置をする」のである。
おそらくこれは、親切心ではなく自己防衛の気のほうが強い。「見せたくない」「嫌な顔をされるだろう」うんぬん。
これは情けない「かなしみ」であり、さらにこの情けなさを歌ってしまえる作者の自意識によって「ユーモア」がにじみでる。
言葉でいえば断定の「なり」が、その強さによって、「ユーモア」と「かなしみ」を押し出す。
そして「夜な夜な」という締めで、連続と継続の期間を付与し、歌を漂わせている。

一点、気になるところがある。
初句の「妻子らの」の「ら」である。この「ら」はもちろん複数を意味し、語の前につく名詞をぼやけさせる。
そして短歌においては、基本的に対象はぼやけさせてはならない。つまり、はっきりさせる。というのがひとつコツである。
であるから、「妻と子が」としたほうがいいと僕は思う。

同じ作者でもう一首あげる。

AED講習人形キャサリンの口の臭かり真夏日の午後

これもおもしろい歌だ。
どこで歌になっているかといえば、断然「キャサリン」という名前だ。
盲点というか、講習用の人形に名前があるとは、普段思いもしない。そこを突かれて気持ちがよい。
おそらく作者も「キャサリン」という名前を知り、「あっ」と思考を突かれたのだろう、と想像する。

さて。歌は歌として、この一首はおもしろいが、ここで少し「臭かり」について考えてみたい。
「臭かり」は「臭し(終止形)」の連用形である。
ということは「臭かり」のあとには用言が接続するべきだが、歌を見ればわかるとおり次の語は「真夏日の午後」だから用言ではない。
というより「口の臭かり。真夏日の午後」というふうにここで切れていると読むべきだろう。
つまり「臭かり(連用形)」が終止形の意味合いでここでは用いられている。
これを可とするか否とするか、という話がもちろん出てくる。

個人的には文法にはゆるい立場をとりたいので、「可」である。
また「かり」は語感が「あり」「なり」「たり」などの【a】【i】の音と響いて、終止形の感触を持っている、と思う。
連用形の「く」+「あり」の変化として「くあり」→「かり」という話もあれば、さらに僕の考えは「可」に傾く。
この歌の場合は、いくらか短歌定型の引力も働いて、「臭かり」というふうにもなっているのだろう。

しかし一応、直すとすれば次のようになる、ということを付け加えておく。

【AED講習人形キャサリンの口臭くあり真夏日の午後】





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2010年9月21日火曜日

煙とけむり

裏通りにタバコくゆらす人たちの煙とけむりが握手してゐる
(黒河内美知子)【短歌人 9月号 85頁】

「裏通り」と言うからには、表からは隠れているのだろう。
ということと、現在の、大手を振って喫煙をすることはできない社会状況を考えると、初句「裏通りに」は意味の付き方が(意図していないとしても)ややあざといようにも思える。
しかし、後半の「煙とけむりが握手してゐる」という表現にとても惹かれた。

「煙とけむりが握手してゐる」
何といえばいいか。
僕は一読、マジックリアリズムだなあ、と思ったのだ。といっても、では「マジックリアリズム」って何なのさ、と言われれば答えに窮するけれど。
この表現はまず視覚があり、この視覚に映った事象に対して作者独自の筆によって色づけがされている。
つまり、現実をそのまま言葉に置き換えたわけではない、ということは歌を読めばわかると思う。

写真--写生画--抽象画
とあって、現実に一番近いのは「写真」でありその次が「写生画」となる。
「写生画」はインプットが画家の視覚でありアウトプットが画家の筆の運動となって、「現実」に「画家」の存在が加わっている。
では「写生画」と「抽象画」の差は何かというと、「抽象画」のほうがより「画家」の内面が強く出て、いわば「画家」の重力により「現実」はゆがめられたかたちで、絵にあらわれる。
このため「抽象画」から「現実」を再構成することは難しい。
などと書いたけれど、僕は絵画に詳しくないので、この話は僕の中のイメージだ。

で。
これを歌の話につなげるわけだが、つまり、短歌の表現というのは「写生画」から「抽象画」までのグラデーションの中におさまる。
「写生画」に近ければリアリズム短歌となり「抽象画」に近ければ難解短歌とか、わけのわからない歌になるわけである。

「煙とけむりが握手してゐる」
この表現は「写生画」と「抽象画」のバランス具合が、とてもいいのではないか。と思う。
驚き(楽しみ)を感じる角度がありつつ、わからないということがない。
ひとつ見本となる表現であると考える。

で。
個人的には「裏通りに」は、はじめに述べたようにあざとい。これは消したい。
また「タバコくゆらす人たち」の「人たち」が惜しいように思う。これがあるばかりに場面設定が少し曖昧になった。
これは推敲の難しいところだと思うが、人物は2人(そして2人は赤の他人である)、タバコをすっている、その煙とけむりが握手している、という場面が描かれれば、さらによい歌になると思う。





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2010年9月16日木曜日

東京の人

あいさつを短く済ませ曇天に傘を持たない東京の人
(黒崎聡美)【短歌人 9月号 会員2 92頁】

この一首を読んで、僕はさびしさを感じた。
それは「あいさつを短く済ませ」る行為や「曇天」という状況からも構成されるが、何より「東京の人」という認識から来る。

言葉のおもしろさのひとつに、実際に文字で表現されていることと別に、不意にその裏側も見せるところ、がある。
これを意味・存在の「立体表現」と言うとすると、この歌はその「立体表現」がなされている。
つまり、作中主体は「傘を持っている」はずであり「東京の人」ではない。そして今、「傘を持たない東京の人」を目の前にしているのである。

「東京の人」という認識は東京の人はしないだろう。
しかし「都会」と「田舎」という軸を持ってくると話はあまりおもしろくない。
ここでは「他人」と「自分」にある、普段から何となくあることはわかっているがそう意識もしていない「境界線」が明確に意識された・認識された、その感覚・視線に注目したい。

おそらく「あいさつを短く済ませ」てまでは境界線の認識は生まれていない。
ちょうど軽く会釈をして視線が相手の手元に届き、何となく違和を感じながら、視線を上げたとき一挙に境界線の認識は生まれたのだと思う。
ということは歌には書かれていないので想像でしかないのだが、歌に添っていけば、
「あいさつを短く済ませ曇天に」
までは、まだ認識は生まれていない。そして、
「傘を持たない」
という発見があり、ここで「東京の人(<私>は東京の人ではない)」という認識が生まれる。
もちろん「曇天に」は「傘を持たない」にかかる言葉だが、歌の中の時間でいえばこの三句まで間(ま)の時間がある、と読む。

口語で、重たくなく書かれている歌だが「東京の人」という認識と、その認識に至るまでの過程に、しっかりした視線(でかつ、微妙に曲がっている)がある。





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2010年9月15日水曜日

記憶の園

母に告げし最後の花の名前ゆゑわれの記憶の園に咲きをり
(伊東一如)【短歌人 9月号 82頁】

この一首前が、
「酔芙蓉」と母に告げたり たまきはる命のきはの花の名あはれ
とある。
つまり、母に告げた最後の花というのは「酔芙蓉」ということになる。
僕は花にとても疎いのだが調べると「酔芙蓉」という花は、朝方に白い花を咲かせ、午後になるとピンクになり、夜にかけてさらに濃くなって赤くなるのだという。
母はその花を「見た」のか「匂った」のかは、わからないが、僕は「見た」のだと想像する、夕方の赤く染まっていく酔芙蓉の花を。

「母に告げたり」から「母に告げし」とあるから、一首から一首へ進む間にここで決定的な変化が訪れているのはわかると思う。
「われの記憶の園に咲きをり」
ここでの「をり」は現時点よりもちょっと先までの継続の状態を匂わせる。そして「今」という時間が「ちょっと先まで」の時間にたどりつくときさらに「そのちょっと先まで」の時間が主体の前に立ちあらわれるだろう。
つまりこの「をり」は主体の感覚からすれば、ほとんど永遠の継続となる。
失うと同時に永遠に咲き続けるであろう花。

この感覚が、悲しく、そして美しい。





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2010年9月12日日曜日

おしっこをする

五年後のことで不安になりながらお風呂の中でおしっこをする
(木嶋章夫)【短歌人 9月号 会員2 87頁】

不安とは、もともとかたちが漠然としている。
今日や明日にもで降りかかってくる事柄についての不安は、漠然としているが濃いといえるだろう。
では「五年後のこと」についての不安はどうだろうか、と考えると、薄いといえる。
具体的な「こと」は書かれていないから、五年後の何によって不安なのか、読者にはわからない。
だから、「作中主体にとってもよくわからないが、けれど近い将来、自分に降りかかってくるだろう、だろうというけれどほとんど確実な予感のする、でもやっぱり何かはわからないもの、こと、そして今の自分よりのそのときの自分は、きっと良くない」という感じが「五年後のこと」という表現になっている、と見る。

「五年後」という表現について考える。
たとえばこれが「一年後」だと、進級や人事の異動などのイメージを呼ぶかと思う。
「三年後」だと卒業で、学生期間の終わり。
「十年後」では、遠すぎる。
また初句五音という定型の要請から候補は、「二年後の」「四年後の」「五年後の」「九年後の」があったと思う。
「九年後」は、やはり遠すぎるので、実質的には「二年後」「四年後」「五年後」の3つだろう。
そこで作者は「五年後」を選択した。
正解・不正解というのはない。
個人的には「五」という数字はきりがよい、と思うので「五」より一欠けている「四」として「四年後」→「不安」という言葉の呼び出しというか結びつきを考えるが、これはこれで、あざといと見る意見もあると思う。

歌にもどる。
作中主体は、漠然としているがでも近い将来において確実に起こると思っている、しかしよくわからないことについての不安に苛まされている。
そういった不安を抱えながら主体のする行動というのが後半の「お風呂の中でおしっこをする」である。
これは子どもっぽい行いであるし、子どもっぽい表現だ。さらにこの歌の、読者が一番目につくところでもある。
この「子どもっぽさ」に、僕は母性を求める心を感じる。
「お風呂の中」は、(僕の考えが)俗っぽいが「母親の胎内」を連想するし「おしっこ」は原始的なストレス解消の手段だ。
「お風呂の中でおしっこをする」という行い・表現は、僕は十分に説得力があると思う。

「求める」ということは、今、「得られていない」ということだ。
というふうに考えると、せつない。
女性よりも男性のほうがわかる歌ではないか。

この歌は、大人の男の「男の子的」なものをうたった歌である。





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2010年9月10日金曜日

プラトン

プラトンの霊魂の不滅をとく教授死別のひとよ音沙汰もなし
(佐々木幸子)【短歌人 9月号 会員2 90頁】

短歌には、その人の生き方というか人生というか、とにかくその人なりのものが出てくる。
この歌が作られるためには次の条件が満たされていなければならない。
  1. プラトン哲学の講義を受けている。
  2. 身近にいた人と死別した経験がある。
  3. 短歌を作っている。

同じ一連には次の歌もある。
小論文面接とほり短大に社会人入学許可されたりき

普通の大学生であれば、おそらくは両親は健在であり、友人らも若く、「死別」という経験はほとんどないだろう。
つまり、普通の大学生では、プラトン哲学の講義を受けている最中に、「死別のひとよ音沙汰もなし」という思いを抱えることは、ないことだ。
逆にいえば、老年にさしかかり、「死別」も経てきた人がプラトン哲学の講義を受けている、というのもあまり想像できないことである。
しかし事実、作者はこのような人生を今、送っている。
この歌には、作者の人生の厚みと作者の歩んでいる作者だけの人生の匂いがにじみ出ていると思う。
空想や想像ではこの場面は作れない、歌えない歌だ。
この歌は、そこがとても良い。

また「死別のひとよ音沙汰もなし」は、ごく自然に心の内から出てきた思いだとおもう。
普通であれば、死んだ人からは連絡が来ないと納得して、みんな生きている。
だが作者は子どものように、そういうふうに思った。
この素朴さはひとつの資質だろう。

常識的に考えられないことは社会生活を営む上では困ったことだが、文学をやる上では光となる。






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2010年9月9日木曜日

強固なる意志

構内の雑踏行くとき強固なる意志もて行けば道展けゆく
(小林恵四郎) 【短歌人 9月号 会員2 73頁】

おもしろい。
普通は、雑踏をいくとき、人の流れに乗ろうとする。
間違って、進行方向とは逆の流れに会ってしまうと、おろおろと狼狽すらしてしまう。

そのように主体も一瞬ひるんだに違いない。
しかし、そこから「この、ひるみの気持ちは一体どこから来るのか?」と内省したのだろう。
導き出されるのは、「社会」と「個」の関係だ。
「空気を読め」というような社会が、私(=個)に、ひるみを生じさせている。
空気を読んで行動するほうが楽ではあるが、しかし、、、
このとき主体は、日常の場面で反撃をはじめたのだ。「強固なる意志」を持って。
意志が強固でなくてはならないのは、対峙しているものがもちろん「社会」だからだ。
そして進むと、どうだろう、自分のための道がひらけてゆく。
というささやかな勝利を詠んだ歌である。

遠くに、モーセの海割りも思わせるのは、「文学」と「文学」の響き合いでしょう。

立場を変えると、流れに逆らって向かってくるやつ、が歌われている、ことになる。
日常で相対したら、迷惑だ、と思うが、この思考は「社会」に属するほうの考え方だ。
「文学は、社会の側につくのではなく徹底的に個の側につかなければならない」
というのは、受け売りだが、僕はこれを支持する。
よって、この歌をよい歌だと思う。

また同じ作者で、
青年はどうぞと席を譲り呉る今し獲りあいに負けたる我に
という歌もあり、「負けたる我」という自己認識を持てるところに、僕は作者への信頼がある。





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2010年9月7日火曜日

ヒトはいつでもどこかにゐなければならない

ヒトはいつでもどこかにゐなければならないのでいまイスの上なり
(西尾正美) 【短歌人 9月号 会員2 83頁】

当たり前のことすぎて普段は意識にも上らないことを、改めて言われるとハッとする。
そういう系統の歌があって、つまり、これはそういう系統の歌である。
たしかにヒトは、いつでもどこかにはいなければならぬ。

この歌の流れは、定型に頼りきって読んでしまうと、すんなり入ってこないかもしれない。
そういうときは、とりあえず頭からずらずらと読んで、ごくりと内に入れてしまうのがよい。
僕は、句切りは次のように読んだ。
「ヒトは/いつでもどこかに/ゐなければ/ならないのでいま/イスの上なり」
真ん中の「ゐなければ」、最後の「イスの上なり」の各箇所は定型の音にはまっている。
崩れつつも、短歌の調べは土俵に残っている、といえる。
もちろん句切りについては、次のようにも読めるだろう。
「ヒトはいつ/でもどこかに/ゐなければ/ならないのでいま/イスの上なり」
どちらが正解というのでもない。
読者は、かなり身勝手に、自分が気持ちのよくなる読み方をしてよいと思う。


さて。
一読、僕はいい歌と思ったが、二読、三読するうちに最後の「イスの上なり」が気にかかってきた。
これは「イスに座っているのか」それとも「イスの上に立っているのか」。
いや、印象では7割ほど「座っている」だろうとは思うけれど、「イスの上なり」という表現は、やや状態を言い切れていないように思う。
「イスに座りをり」とすれば状態は明確になるが、八音となり定型の音からは一音、多くなる。(さらにおもしろい語句ではない)
おそらく作者は悩んだろう、と想像する。

僕も悩む。





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2010年9月6日月曜日

お茶会もエアロビクスも

お茶会もエアロビクスも同じかず五千八百歩を携帯記す
津布久愔子) 【短歌人 9月号 会員2 73頁】
 携帯電話には万歩計の機能が付いているものがある。
ということを知っていれば、「五千八百歩を携帯記す」を不思議に思うことはない。

この歌のおもしろさは、異なるものが(ある視点を導入することによって)同一であることを発見しているところである。
「お茶会」と「エアロビクス」、<静>と<動>がしかし、終わってみると、携帯電話の万歩計機能では同じ歩数を記録していた。
そこに驚き・不可思議を感じたのであろう。
その感じたはずの驚き・不可思議の気持ちをわざわざ歌の中に書かないところが、良い。
これはひとつ技術である。

また「お茶会」「エアロビクス」という語からは、主体の健やかな生活が立ち上がるようで、この歌はよい風が吹いている。

注文が2つ。
1つ。「同じかず」は、言わずもがな、である。わざわざ言う必要はない。これは短歌の定型に安くはまってしまった、と見る。自戒も込めて、作歌上の注意点である。
2つ。語の表記は大きく個人の趣味の問題となるが、僕なら「五千八百歩」ではなく「5800歩」とする。おそらく携帯電話に表示される数字はアラビア数字ではないだろうか。





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夜のみぎは

外に脱ぎしサンダルひどく湿りをり夜のみぎはを歩きしごとく
(松岡圭子)[短歌人 9月号 会員2 72頁]

誌面上では「外」は「と」の読み仮名が振られている。
まずは次のことを確認しておこう。
「脱ぎし」の「し」、「歩きし」の「し」は、助動詞「き」の連体形「し」である。
助動詞「き」には、過去の事実や回想を述べる意味があり、「外に脱ぎし」は「外に脱いだ」というふうにわかればいい。
「みぎは」は現代仮名遣いでは「みぎわ」であり、みずぎわの意味。つまり「陸地の、水に接する所」(広辞苑第五版)である。
これでとりあえず、歌の意味についてはわかると思う。

この歌にはひとつ謎がある。
謎とはつまり、「なぜ、サンダルはひどく湿っているのか?」
この謎がおそらくこの歌の核であり、読みどころとなる。

「夜のみぎはを歩きしごとく」であるから、サンダルが湿っているのは、夜のみぎわを歩いてきたからではない。
しかし「夜のみぎは」には、何かしらの心理があらわれている。
「みぎは」は、上の説明の通り「陸地の、水に接する所」であり、陸と水の境界線だ。境界線には、こちら側を許可し、あちら側を禁止するという意味をここでは考えたい。
「夜の」は、時間的な夜という意味だけでなく、もう少し意味を加えてもいいかもしれない。
たとえば、人から隠したい、表にはしたくない、というような。
つまり、歌の主体は、行ってはならないところへ、その境界線上で逡巡し、結局あちら側へは行かずに帰ってきた。
その心理・葛藤が、サンダルに湿りとして残っている。
(このような心理・葛藤を起こす具体的なドラマは、読み手それぞれが想像していいと思うが、評としては控える。)
「サンダル」には手軽・近い・日常というイメージがあり、このような重い意味づけを拒むところがあるが、危機は案外近くにある、ということもあるか。

「夜のみぎはを歩きしごとく」という表現がうつくしい。





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2010年9月4日土曜日

はじめに

短歌とは、五-七-五-七-七の韻律を持つ定型詩です。
例をあげましょう。
まどかなる月はいでつつ空ひくく近江のうみに光うつろふ (斎藤茂吉)
 上の歌は、「まどかなる/月はいでつつ/空ひくく/近江のうみに/光うつろふ」というふうに、五-七-五-七-七のかたちにおさまっていますね。これが短歌の定型です。

しかし「定型」におさまったものだけが短歌というわけではありません。つまり「非定型」の短歌というものもあります。
父よあなたは弱かつたから生きのびて昭和二十年春の侘助 (塚本邦雄)
この歌は定型で句切ることができません。試しに定型で句切ってみると、「父よあな/たは弱かつ /たから生き/のびて昭和二/十年春の/……」となり、おかしくなります。
この歌の句切り方は、次のようになるでしょう。
「父よあなたは/弱かつたから/生きのびて/昭和二十年/春の侘助」

短歌とは規則である定型と(人の心の在りようである)非定型とが相互に引力のような力で作用つつ、あらわれた言葉の連なりと考えることができるでしょう。

長くなりました。
この短歌というものを日夜作っている人々がいます。そしてそんな人々が集まる結社という組織が日本には多くの数あり、この結社は結社誌というものを発行しています。
もちろん結社誌には短歌が載っています。

「短歌人会」は、数ある短歌結社のひとつであり、「短歌人」は短歌人会の発行する結社誌です。
このブログは、「短歌人」に掲載された歌をつらつらと読んで、勝手に感想などを書いてゆくブログです。

ご興味のある方、ぜひぜひ、よろしくお願いいたします。





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