妻子らの寝入るを待ちて水虫の処置をするなり梅雨の夜な夜な
(平田栄一)【短歌人 10月号 83頁】
この歌には、「ユーモア」と「かなしみ」がある。
梅雨の、ちょっと暗めな感じと、顔を上げるというよりは下げる雰囲気、実際に作中の主体は自らの足の爪へと視線を落としているに違いないのだが、つまり、その光景と感じ。
さらに妻と子から隠れるようにして、男は「水虫の処置をする」のである。
おそらくこれは、親切心ではなく自己防衛の気のほうが強い。「見せたくない」「嫌な顔をされるだろう」うんぬん。
これは情けない「かなしみ」であり、さらにこの情けなさを歌ってしまえる作者の自意識によって「ユーモア」がにじみでる。
言葉でいえば断定の「なり」が、その強さによって、「ユーモア」と「かなしみ」を押し出す。
そして「夜な夜な」という締めで、連続と継続の期間を付与し、歌を漂わせている。
一点、気になるところがある。
初句の「妻子らの」の「ら」である。この「ら」はもちろん複数を意味し、語の前につく名詞をぼやけさせる。
そして短歌においては、基本的に対象はぼやけさせてはならない。つまり、はっきりさせる。というのがひとつコツである。
であるから、「妻と子が」としたほうがいいと僕は思う。
同じ作者でもう一首あげる。
AED講習人形キャサリンの口の臭かり真夏日の午後
これもおもしろい歌だ。
どこで歌になっているかといえば、断然「キャサリン」という名前だ。
盲点というか、講習用の人形に名前があるとは、普段思いもしない。そこを突かれて気持ちがよい。
おそらく作者も「キャサリン」という名前を知り、「あっ」と思考を突かれたのだろう、と想像する。
さて。歌は歌として、この一首はおもしろいが、ここで少し「臭かり」について考えてみたい。
「臭かり」は「臭し(終止形)」の連用形である。
ということは「臭かり」のあとには用言が接続するべきだが、歌を見ればわかるとおり次の語は「真夏日の午後」だから用言ではない。
というより「口の臭かり。真夏日の午後」というふうにここで切れていると読むべきだろう。
つまり「臭かり(連用形)」が終止形の意味合いでここでは用いられている。
これを可とするか否とするか、という話がもちろん出てくる。
個人的には文法にはゆるい立場をとりたいので、「可」である。
また「かり」は語感が「あり」「なり」「たり」などの【a】【i】の音と響いて、終止形の感触を持っている、と思う。
連用形の「く」+「あり」の変化として「くあり」→「かり」という話もあれば、さらに僕の考えは「可」に傾く。
この歌の場合は、いくらか短歌定型の引力も働いて、「臭かり」というふうにもなっているのだろう。
しかし一応、直すとすれば次のようになる、ということを付け加えておく。
【AED講習人形キャサリンの口臭くあり真夏日の午後】