短歌人を読む

結社誌「短歌人」に掲載された歌を読んで感想を書きます



2010年9月29日水曜日

梅雨の夜な夜な/キャサリン

妻子らの寝入るを待ちて水虫の処置をするなり梅雨の夜な夜な
(平田栄一)【短歌人 10月号 83頁】

この歌には、「ユーモア」と「かなしみ」がある。
梅雨の、ちょっと暗めな感じと、顔を上げるというよりは下げる雰囲気、実際に作中の主体は自らの足の爪へと視線を落としているに違いないのだが、つまり、その光景と感じ。
さらに妻と子から隠れるようにして、男は「水虫の処置をする」のである。
おそらくこれは、親切心ではなく自己防衛の気のほうが強い。「見せたくない」「嫌な顔をされるだろう」うんぬん。
これは情けない「かなしみ」であり、さらにこの情けなさを歌ってしまえる作者の自意識によって「ユーモア」がにじみでる。
言葉でいえば断定の「なり」が、その強さによって、「ユーモア」と「かなしみ」を押し出す。
そして「夜な夜な」という締めで、連続と継続の期間を付与し、歌を漂わせている。

一点、気になるところがある。
初句の「妻子らの」の「ら」である。この「ら」はもちろん複数を意味し、語の前につく名詞をぼやけさせる。
そして短歌においては、基本的に対象はぼやけさせてはならない。つまり、はっきりさせる。というのがひとつコツである。
であるから、「妻と子が」としたほうがいいと僕は思う。

同じ作者でもう一首あげる。

AED講習人形キャサリンの口の臭かり真夏日の午後

これもおもしろい歌だ。
どこで歌になっているかといえば、断然「キャサリン」という名前だ。
盲点というか、講習用の人形に名前があるとは、普段思いもしない。そこを突かれて気持ちがよい。
おそらく作者も「キャサリン」という名前を知り、「あっ」と思考を突かれたのだろう、と想像する。

さて。歌は歌として、この一首はおもしろいが、ここで少し「臭かり」について考えてみたい。
「臭かり」は「臭し(終止形)」の連用形である。
ということは「臭かり」のあとには用言が接続するべきだが、歌を見ればわかるとおり次の語は「真夏日の午後」だから用言ではない。
というより「口の臭かり。真夏日の午後」というふうにここで切れていると読むべきだろう。
つまり「臭かり(連用形)」が終止形の意味合いでここでは用いられている。
これを可とするか否とするか、という話がもちろん出てくる。

個人的には文法にはゆるい立場をとりたいので、「可」である。
また「かり」は語感が「あり」「なり」「たり」などの【a】【i】の音と響いて、終止形の感触を持っている、と思う。
連用形の「く」+「あり」の変化として「くあり」→「かり」という話もあれば、さらに僕の考えは「可」に傾く。
この歌の場合は、いくらか短歌定型の引力も働いて、「臭かり」というふうにもなっているのだろう。

しかし一応、直すとすれば次のようになる、ということを付け加えておく。

【AED講習人形キャサリンの口臭くあり真夏日の午後】





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2010年9月21日火曜日

煙とけむり

裏通りにタバコくゆらす人たちの煙とけむりが握手してゐる
(黒河内美知子)【短歌人 9月号 85頁】

「裏通り」と言うからには、表からは隠れているのだろう。
ということと、現在の、大手を振って喫煙をすることはできない社会状況を考えると、初句「裏通りに」は意味の付き方が(意図していないとしても)ややあざといようにも思える。
しかし、後半の「煙とけむりが握手してゐる」という表現にとても惹かれた。

「煙とけむりが握手してゐる」
何といえばいいか。
僕は一読、マジックリアリズムだなあ、と思ったのだ。といっても、では「マジックリアリズム」って何なのさ、と言われれば答えに窮するけれど。
この表現はまず視覚があり、この視覚に映った事象に対して作者独自の筆によって色づけがされている。
つまり、現実をそのまま言葉に置き換えたわけではない、ということは歌を読めばわかると思う。

写真--写生画--抽象画
とあって、現実に一番近いのは「写真」でありその次が「写生画」となる。
「写生画」はインプットが画家の視覚でありアウトプットが画家の筆の運動となって、「現実」に「画家」の存在が加わっている。
では「写生画」と「抽象画」の差は何かというと、「抽象画」のほうがより「画家」の内面が強く出て、いわば「画家」の重力により「現実」はゆがめられたかたちで、絵にあらわれる。
このため「抽象画」から「現実」を再構成することは難しい。
などと書いたけれど、僕は絵画に詳しくないので、この話は僕の中のイメージだ。

で。
これを歌の話につなげるわけだが、つまり、短歌の表現というのは「写生画」から「抽象画」までのグラデーションの中におさまる。
「写生画」に近ければリアリズム短歌となり「抽象画」に近ければ難解短歌とか、わけのわからない歌になるわけである。

「煙とけむりが握手してゐる」
この表現は「写生画」と「抽象画」のバランス具合が、とてもいいのではないか。と思う。
驚き(楽しみ)を感じる角度がありつつ、わからないということがない。
ひとつ見本となる表現であると考える。

で。
個人的には「裏通りに」は、はじめに述べたようにあざとい。これは消したい。
また「タバコくゆらす人たち」の「人たち」が惜しいように思う。これがあるばかりに場面設定が少し曖昧になった。
これは推敲の難しいところだと思うが、人物は2人(そして2人は赤の他人である)、タバコをすっている、その煙とけむりが握手している、という場面が描かれれば、さらによい歌になると思う。





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2010年9月16日木曜日

東京の人

あいさつを短く済ませ曇天に傘を持たない東京の人
(黒崎聡美)【短歌人 9月号 会員2 92頁】

この一首を読んで、僕はさびしさを感じた。
それは「あいさつを短く済ませ」る行為や「曇天」という状況からも構成されるが、何より「東京の人」という認識から来る。

言葉のおもしろさのひとつに、実際に文字で表現されていることと別に、不意にその裏側も見せるところ、がある。
これを意味・存在の「立体表現」と言うとすると、この歌はその「立体表現」がなされている。
つまり、作中主体は「傘を持っている」はずであり「東京の人」ではない。そして今、「傘を持たない東京の人」を目の前にしているのである。

「東京の人」という認識は東京の人はしないだろう。
しかし「都会」と「田舎」という軸を持ってくると話はあまりおもしろくない。
ここでは「他人」と「自分」にある、普段から何となくあることはわかっているがそう意識もしていない「境界線」が明確に意識された・認識された、その感覚・視線に注目したい。

おそらく「あいさつを短く済ませ」てまでは境界線の認識は生まれていない。
ちょうど軽く会釈をして視線が相手の手元に届き、何となく違和を感じながら、視線を上げたとき一挙に境界線の認識は生まれたのだと思う。
ということは歌には書かれていないので想像でしかないのだが、歌に添っていけば、
「あいさつを短く済ませ曇天に」
までは、まだ認識は生まれていない。そして、
「傘を持たない」
という発見があり、ここで「東京の人(<私>は東京の人ではない)」という認識が生まれる。
もちろん「曇天に」は「傘を持たない」にかかる言葉だが、歌の中の時間でいえばこの三句まで間(ま)の時間がある、と読む。

口語で、重たくなく書かれている歌だが「東京の人」という認識と、その認識に至るまでの過程に、しっかりした視線(でかつ、微妙に曲がっている)がある。





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2010年9月15日水曜日

記憶の園

母に告げし最後の花の名前ゆゑわれの記憶の園に咲きをり
(伊東一如)【短歌人 9月号 82頁】

この一首前が、
「酔芙蓉」と母に告げたり たまきはる命のきはの花の名あはれ
とある。
つまり、母に告げた最後の花というのは「酔芙蓉」ということになる。
僕は花にとても疎いのだが調べると「酔芙蓉」という花は、朝方に白い花を咲かせ、午後になるとピンクになり、夜にかけてさらに濃くなって赤くなるのだという。
母はその花を「見た」のか「匂った」のかは、わからないが、僕は「見た」のだと想像する、夕方の赤く染まっていく酔芙蓉の花を。

「母に告げたり」から「母に告げし」とあるから、一首から一首へ進む間にここで決定的な変化が訪れているのはわかると思う。
「われの記憶の園に咲きをり」
ここでの「をり」は現時点よりもちょっと先までの継続の状態を匂わせる。そして「今」という時間が「ちょっと先まで」の時間にたどりつくときさらに「そのちょっと先まで」の時間が主体の前に立ちあらわれるだろう。
つまりこの「をり」は主体の感覚からすれば、ほとんど永遠の継続となる。
失うと同時に永遠に咲き続けるであろう花。

この感覚が、悲しく、そして美しい。





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2010年9月12日日曜日

おしっこをする

五年後のことで不安になりながらお風呂の中でおしっこをする
(木嶋章夫)【短歌人 9月号 会員2 87頁】

不安とは、もともとかたちが漠然としている。
今日や明日にもで降りかかってくる事柄についての不安は、漠然としているが濃いといえるだろう。
では「五年後のこと」についての不安はどうだろうか、と考えると、薄いといえる。
具体的な「こと」は書かれていないから、五年後の何によって不安なのか、読者にはわからない。
だから、「作中主体にとってもよくわからないが、けれど近い将来、自分に降りかかってくるだろう、だろうというけれどほとんど確実な予感のする、でもやっぱり何かはわからないもの、こと、そして今の自分よりのそのときの自分は、きっと良くない」という感じが「五年後のこと」という表現になっている、と見る。

「五年後」という表現について考える。
たとえばこれが「一年後」だと、進級や人事の異動などのイメージを呼ぶかと思う。
「三年後」だと卒業で、学生期間の終わり。
「十年後」では、遠すぎる。
また初句五音という定型の要請から候補は、「二年後の」「四年後の」「五年後の」「九年後の」があったと思う。
「九年後」は、やはり遠すぎるので、実質的には「二年後」「四年後」「五年後」の3つだろう。
そこで作者は「五年後」を選択した。
正解・不正解というのはない。
個人的には「五」という数字はきりがよい、と思うので「五」より一欠けている「四」として「四年後」→「不安」という言葉の呼び出しというか結びつきを考えるが、これはこれで、あざといと見る意見もあると思う。

歌にもどる。
作中主体は、漠然としているがでも近い将来において確実に起こると思っている、しかしよくわからないことについての不安に苛まされている。
そういった不安を抱えながら主体のする行動というのが後半の「お風呂の中でおしっこをする」である。
これは子どもっぽい行いであるし、子どもっぽい表現だ。さらにこの歌の、読者が一番目につくところでもある。
この「子どもっぽさ」に、僕は母性を求める心を感じる。
「お風呂の中」は、(僕の考えが)俗っぽいが「母親の胎内」を連想するし「おしっこ」は原始的なストレス解消の手段だ。
「お風呂の中でおしっこをする」という行い・表現は、僕は十分に説得力があると思う。

「求める」ということは、今、「得られていない」ということだ。
というふうに考えると、せつない。
女性よりも男性のほうがわかる歌ではないか。

この歌は、大人の男の「男の子的」なものをうたった歌である。





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2010年9月10日金曜日

プラトン

プラトンの霊魂の不滅をとく教授死別のひとよ音沙汰もなし
(佐々木幸子)【短歌人 9月号 会員2 90頁】

短歌には、その人の生き方というか人生というか、とにかくその人なりのものが出てくる。
この歌が作られるためには次の条件が満たされていなければならない。
  1. プラトン哲学の講義を受けている。
  2. 身近にいた人と死別した経験がある。
  3. 短歌を作っている。

同じ一連には次の歌もある。
小論文面接とほり短大に社会人入学許可されたりき

普通の大学生であれば、おそらくは両親は健在であり、友人らも若く、「死別」という経験はほとんどないだろう。
つまり、普通の大学生では、プラトン哲学の講義を受けている最中に、「死別のひとよ音沙汰もなし」という思いを抱えることは、ないことだ。
逆にいえば、老年にさしかかり、「死別」も経てきた人がプラトン哲学の講義を受けている、というのもあまり想像できないことである。
しかし事実、作者はこのような人生を今、送っている。
この歌には、作者の人生の厚みと作者の歩んでいる作者だけの人生の匂いがにじみ出ていると思う。
空想や想像ではこの場面は作れない、歌えない歌だ。
この歌は、そこがとても良い。

また「死別のひとよ音沙汰もなし」は、ごく自然に心の内から出てきた思いだとおもう。
普通であれば、死んだ人からは連絡が来ないと納得して、みんな生きている。
だが作者は子どものように、そういうふうに思った。
この素朴さはひとつの資質だろう。

常識的に考えられないことは社会生活を営む上では困ったことだが、文学をやる上では光となる。






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2010年9月9日木曜日

強固なる意志

構内の雑踏行くとき強固なる意志もて行けば道展けゆく
(小林恵四郎) 【短歌人 9月号 会員2 73頁】

おもしろい。
普通は、雑踏をいくとき、人の流れに乗ろうとする。
間違って、進行方向とは逆の流れに会ってしまうと、おろおろと狼狽すらしてしまう。

そのように主体も一瞬ひるんだに違いない。
しかし、そこから「この、ひるみの気持ちは一体どこから来るのか?」と内省したのだろう。
導き出されるのは、「社会」と「個」の関係だ。
「空気を読め」というような社会が、私(=個)に、ひるみを生じさせている。
空気を読んで行動するほうが楽ではあるが、しかし、、、
このとき主体は、日常の場面で反撃をはじめたのだ。「強固なる意志」を持って。
意志が強固でなくてはならないのは、対峙しているものがもちろん「社会」だからだ。
そして進むと、どうだろう、自分のための道がひらけてゆく。
というささやかな勝利を詠んだ歌である。

遠くに、モーセの海割りも思わせるのは、「文学」と「文学」の響き合いでしょう。

立場を変えると、流れに逆らって向かってくるやつ、が歌われている、ことになる。
日常で相対したら、迷惑だ、と思うが、この思考は「社会」に属するほうの考え方だ。
「文学は、社会の側につくのではなく徹底的に個の側につかなければならない」
というのは、受け売りだが、僕はこれを支持する。
よって、この歌をよい歌だと思う。

また同じ作者で、
青年はどうぞと席を譲り呉る今し獲りあいに負けたる我に
という歌もあり、「負けたる我」という自己認識を持てるところに、僕は作者への信頼がある。





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2010年9月7日火曜日

ヒトはいつでもどこかにゐなければならない

ヒトはいつでもどこかにゐなければならないのでいまイスの上なり
(西尾正美) 【短歌人 9月号 会員2 83頁】

当たり前のことすぎて普段は意識にも上らないことを、改めて言われるとハッとする。
そういう系統の歌があって、つまり、これはそういう系統の歌である。
たしかにヒトは、いつでもどこかにはいなければならぬ。

この歌の流れは、定型に頼りきって読んでしまうと、すんなり入ってこないかもしれない。
そういうときは、とりあえず頭からずらずらと読んで、ごくりと内に入れてしまうのがよい。
僕は、句切りは次のように読んだ。
「ヒトは/いつでもどこかに/ゐなければ/ならないのでいま/イスの上なり」
真ん中の「ゐなければ」、最後の「イスの上なり」の各箇所は定型の音にはまっている。
崩れつつも、短歌の調べは土俵に残っている、といえる。
もちろん句切りについては、次のようにも読めるだろう。
「ヒトはいつ/でもどこかに/ゐなければ/ならないのでいま/イスの上なり」
どちらが正解というのでもない。
読者は、かなり身勝手に、自分が気持ちのよくなる読み方をしてよいと思う。


さて。
一読、僕はいい歌と思ったが、二読、三読するうちに最後の「イスの上なり」が気にかかってきた。
これは「イスに座っているのか」それとも「イスの上に立っているのか」。
いや、印象では7割ほど「座っている」だろうとは思うけれど、「イスの上なり」という表現は、やや状態を言い切れていないように思う。
「イスに座りをり」とすれば状態は明確になるが、八音となり定型の音からは一音、多くなる。(さらにおもしろい語句ではない)
おそらく作者は悩んだろう、と想像する。

僕も悩む。





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2010年9月6日月曜日

お茶会もエアロビクスも

お茶会もエアロビクスも同じかず五千八百歩を携帯記す
津布久愔子) 【短歌人 9月号 会員2 73頁】
 携帯電話には万歩計の機能が付いているものがある。
ということを知っていれば、「五千八百歩を携帯記す」を不思議に思うことはない。

この歌のおもしろさは、異なるものが(ある視点を導入することによって)同一であることを発見しているところである。
「お茶会」と「エアロビクス」、<静>と<動>がしかし、終わってみると、携帯電話の万歩計機能では同じ歩数を記録していた。
そこに驚き・不可思議を感じたのであろう。
その感じたはずの驚き・不可思議の気持ちをわざわざ歌の中に書かないところが、良い。
これはひとつ技術である。

また「お茶会」「エアロビクス」という語からは、主体の健やかな生活が立ち上がるようで、この歌はよい風が吹いている。

注文が2つ。
1つ。「同じかず」は、言わずもがな、である。わざわざ言う必要はない。これは短歌の定型に安くはまってしまった、と見る。自戒も込めて、作歌上の注意点である。
2つ。語の表記は大きく個人の趣味の問題となるが、僕なら「五千八百歩」ではなく「5800歩」とする。おそらく携帯電話に表示される数字はアラビア数字ではないだろうか。





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夜のみぎは

外に脱ぎしサンダルひどく湿りをり夜のみぎはを歩きしごとく
(松岡圭子)[短歌人 9月号 会員2 72頁]

誌面上では「外」は「と」の読み仮名が振られている。
まずは次のことを確認しておこう。
「脱ぎし」の「し」、「歩きし」の「し」は、助動詞「き」の連体形「し」である。
助動詞「き」には、過去の事実や回想を述べる意味があり、「外に脱ぎし」は「外に脱いだ」というふうにわかればいい。
「みぎは」は現代仮名遣いでは「みぎわ」であり、みずぎわの意味。つまり「陸地の、水に接する所」(広辞苑第五版)である。
これでとりあえず、歌の意味についてはわかると思う。

この歌にはひとつ謎がある。
謎とはつまり、「なぜ、サンダルはひどく湿っているのか?」
この謎がおそらくこの歌の核であり、読みどころとなる。

「夜のみぎはを歩きしごとく」であるから、サンダルが湿っているのは、夜のみぎわを歩いてきたからではない。
しかし「夜のみぎは」には、何かしらの心理があらわれている。
「みぎは」は、上の説明の通り「陸地の、水に接する所」であり、陸と水の境界線だ。境界線には、こちら側を許可し、あちら側を禁止するという意味をここでは考えたい。
「夜の」は、時間的な夜という意味だけでなく、もう少し意味を加えてもいいかもしれない。
たとえば、人から隠したい、表にはしたくない、というような。
つまり、歌の主体は、行ってはならないところへ、その境界線上で逡巡し、結局あちら側へは行かずに帰ってきた。
その心理・葛藤が、サンダルに湿りとして残っている。
(このような心理・葛藤を起こす具体的なドラマは、読み手それぞれが想像していいと思うが、評としては控える。)
「サンダル」には手軽・近い・日常というイメージがあり、このような重い意味づけを拒むところがあるが、危機は案外近くにある、ということもあるか。

「夜のみぎはを歩きしごとく」という表現がうつくしい。





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2010年9月4日土曜日

はじめに

短歌とは、五-七-五-七-七の韻律を持つ定型詩です。
例をあげましょう。
まどかなる月はいでつつ空ひくく近江のうみに光うつろふ (斎藤茂吉)
 上の歌は、「まどかなる/月はいでつつ/空ひくく/近江のうみに/光うつろふ」というふうに、五-七-五-七-七のかたちにおさまっていますね。これが短歌の定型です。

しかし「定型」におさまったものだけが短歌というわけではありません。つまり「非定型」の短歌というものもあります。
父よあなたは弱かつたから生きのびて昭和二十年春の侘助 (塚本邦雄)
この歌は定型で句切ることができません。試しに定型で句切ってみると、「父よあな/たは弱かつ /たから生き/のびて昭和二/十年春の/……」となり、おかしくなります。
この歌の句切り方は、次のようになるでしょう。
「父よあなたは/弱かつたから/生きのびて/昭和二十年/春の侘助」

短歌とは規則である定型と(人の心の在りようである)非定型とが相互に引力のような力で作用つつ、あらわれた言葉の連なりと考えることができるでしょう。

長くなりました。
この短歌というものを日夜作っている人々がいます。そしてそんな人々が集まる結社という組織が日本には多くの数あり、この結社は結社誌というものを発行しています。
もちろん結社誌には短歌が載っています。

「短歌人会」は、数ある短歌結社のひとつであり、「短歌人」は短歌人会の発行する結社誌です。
このブログは、「短歌人」に掲載された歌をつらつらと読んで、勝手に感想などを書いてゆくブログです。

ご興味のある方、ぜひぜひ、よろしくお願いいたします。





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