短歌人を読む

結社誌「短歌人」に掲載された歌を読んで感想を書きます



2010年9月21日火曜日

煙とけむり

裏通りにタバコくゆらす人たちの煙とけむりが握手してゐる
(黒河内美知子)【短歌人 9月号 85頁】

「裏通り」と言うからには、表からは隠れているのだろう。
ということと、現在の、大手を振って喫煙をすることはできない社会状況を考えると、初句「裏通りに」は意味の付き方が(意図していないとしても)ややあざといようにも思える。
しかし、後半の「煙とけむりが握手してゐる」という表現にとても惹かれた。

「煙とけむりが握手してゐる」
何といえばいいか。
僕は一読、マジックリアリズムだなあ、と思ったのだ。といっても、では「マジックリアリズム」って何なのさ、と言われれば答えに窮するけれど。
この表現はまず視覚があり、この視覚に映った事象に対して作者独自の筆によって色づけがされている。
つまり、現実をそのまま言葉に置き換えたわけではない、ということは歌を読めばわかると思う。

写真--写生画--抽象画
とあって、現実に一番近いのは「写真」でありその次が「写生画」となる。
「写生画」はインプットが画家の視覚でありアウトプットが画家の筆の運動となって、「現実」に「画家」の存在が加わっている。
では「写生画」と「抽象画」の差は何かというと、「抽象画」のほうがより「画家」の内面が強く出て、いわば「画家」の重力により「現実」はゆがめられたかたちで、絵にあらわれる。
このため「抽象画」から「現実」を再構成することは難しい。
などと書いたけれど、僕は絵画に詳しくないので、この話は僕の中のイメージだ。

で。
これを歌の話につなげるわけだが、つまり、短歌の表現というのは「写生画」から「抽象画」までのグラデーションの中におさまる。
「写生画」に近ければリアリズム短歌となり「抽象画」に近ければ難解短歌とか、わけのわからない歌になるわけである。

「煙とけむりが握手してゐる」
この表現は「写生画」と「抽象画」のバランス具合が、とてもいいのではないか。と思う。
驚き(楽しみ)を感じる角度がありつつ、わからないということがない。
ひとつ見本となる表現であると考える。

で。
個人的には「裏通りに」は、はじめに述べたようにあざとい。これは消したい。
また「タバコくゆらす人たち」の「人たち」が惜しいように思う。これがあるばかりに場面設定が少し曖昧になった。
これは推敲の難しいところだと思うが、人物は2人(そして2人は赤の他人である)、タバコをすっている、その煙とけむりが握手している、という場面が描かれれば、さらによい歌になると思う。





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