買い替えて運び出されし冷蔵庫を見送りおれば胸痛くなり
(立花マリ子)【短歌人 10月号 95頁】
たとえば「うれしい」とか「かなしい」とか言うけれど、それはとりあえず「うれしい」とか「かなしい」という言葉に、不定形な【ある感情】をあてているのであって、この【ある感情】というのは「うれしい」とか「かなしい」という言葉ですべて表現できるわけではない。
不等号を使って考えてみると、
【ある感情】 > 感情をあらわす言葉(「うれしい」「かなしい」)であり、つまり【ある感情】を感情をあらわす言葉(「うれしい」「かなしい」)に変換すると、少なくない、多くの情報が落ちてしまうのである。
日常の場面なら、言葉にすることによって情報が落ちてしまっても、実際に相対していれば、発する人の声の抑揚や表情、人物像などで情報を補完できる。
不等号では、
【ある感情】 > 感情をあらわす言葉+声の抑揚(聴覚からの情報)+表情(視覚からの情報)...> 感情をあらわす言葉となり、言葉+他の補完情報で、言葉だけより【ある感情】に近づくことができる。
という説明で、何を言いたかったのかというと、ようするに僕は(我々は)、「うれしい」とか「かなしい」という言葉だけではちっとも、うれしくもかなしくもならないのだ、ということだ。
短歌は、存在するとき、言葉だけで存在する。
言葉だけで存在する短歌というもので、【ある感情】をどのように表現したらいいのか?
上で試みた説明が納得のいくものだとしたら、感情をあらわす言葉だけで表現するのは一番解決に遠い、というのはわかると思う。
かといって言葉以外の補完情報というものを付加することはできない(歌の作者を知っていれば人物像という情報はあるけれど)。
では、今日あげた歌を見てみよう。
買い替えて運び出されし冷蔵庫を見送りおれば胸痛くなり
この歌のかたちに、問いへの答えがある。
つまり、言葉で空間・場面を作り出し、読み手に仮想的に五感を与えて、これに感情をあらわす言葉を添えるのである。
空間・場面は、わかりやすく、不足なく具体的であることがよい。これはあとに添える感情をあらわす言葉は、抽象的になるので、
抽象+抽象より、
具体+抽象のかたちのほうが、歌が逃げないからである。
「買い替えて運び出されし冷蔵庫を見送りおれば」
場面、具体的である。よし。
「胸痛くなり」
この部分が添えた感情をあらわす言葉であるが「切なくなりて」という言葉でないところがポイントである。
「せつない」よりも「胸が痛い」のほうが身体的であり、つまりわかりやすさ・読み手の追体験度が身体的であるほうが上なのである。よし。
さて。
この歌の、
具体的な場面を作る+感情をあらわす言葉を添えるというかたちを持って、この歌が良い歌だ、ということではない。
つまり、作り手はこのかたちを持ってさらに一歩を超えなければならない。
そしてこの歌はその一歩を超えている。
それは何か。
この歌を一読して、変な感じを持たなかっただろうか。
僕が感じたのは、
1+1 = -1というようなものだ。
普通ならば、買い替えた新しい冷蔵庫に視線が行き、「新品」「機能も最新」→「うれしい」というものだ。
おそらく歌の作中主体もそのように思っていて、新しい冷蔵庫が来ることにウキウキしていたはずであるが、実際に今まで使っていた古い冷蔵庫が業者によって運び出される段になって、自分でも知らなかった、気づいていなかった、古い冷蔵庫への愛着に、急に目覚めたのである。
その思いが「胸痛くなり」という表現になっている。
この、特殊というか、気持ちの外れ方が、この歌の「一歩を超えている」部分である。
もしかしたら詠草にはこの歌の前の歌もあり、そこでは「すごく愛着のある冷蔵庫なのに、壊れてしまって、買い替えなければいけない」というような歌があるかもしれないが、僕は上の読みを提示して、推す。
以上をもって、この歌はよい歌だと僕は思う。
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