どういうことか、というと、たとえば手紙を書いていたら、自分で書いた自分の字を見ているうちに、段々と気分が重たくなり、それ以上書くのが嫌になってしまうのである。
字が下手なので、気が滅入ってしまうのだ。
といういわけで僕は筆不精である。
短歌人の佐々木通代さんから歌集『蜜蜂の箱』をいただいた。
本来なら、手紙を書いてお礼を送るべきなのだろうが、上に記したように僕は筆不精である。
なので、この場で感想など書いて、気持ちとしたい。
おそらく一冊の歌集には様々な顔があるに違いないが、『蜜蜂の箱』を読み終わり、僕の心にまずあったのは、静かなもの、だった。
たとえれば(と、たとえるのは決していいことばかりではないが)、朝、まだ靄のかかる川に小舟が一艘こぎだしてゆく、そのときわずかに引いて消える舳先の軌跡のような、静かなもの。
つまり、心に刺さるというよりは、胸からすっと離れていくような感覚がある。
あるいは、読者に共感させるというより、読者と一定の距離を置いたところに歌が立っているというべきか。
この距離というのは、「現実」と「非現実」という距離感ではなく、「日常」と「日常」の距離感なのだが、しかし歌の立っている場所は徹底して「<作者の>日常」であるということだ。
所有の気配のある歌を何首かあげる。
日本語にないなまぐさき母音なりわたしの窓に恋猫が鳴く
まひまひの殻がぽつんと落ちてゐる水無月尽のわたくしの庭
をどりこ草雨をかづきて咲いてをりわたしの犬は立てなくなりぬ三首目、痛切な歌であるが、おそらく作者は読者にその「痛切」を許さないだろう(「許さない」というほど強い言葉でなくても)。
それは立てなくなったのは、「わたしの」犬であって、「あなたの」あるいはもっと普遍性のある犬ではないからだ。
だからこの痛切さは、やはり徹底的に「わたしの」ものだろう。
またこの歌は、歌集中決して名前を呼ばれない「犬」であるが、この「犬」の個がよく立ち上がってくるいい歌だと思う。
この「わたしの」「わたくしの」という意識が、ひとつ読者との距離を作り、歌の立っている場所が「わたしの」ところであることを示している。
だからといって、この歌集によく「わたし」が出てくるかというと、そういうわけでもない。
むしろ「わたし」が前面に出てこない歌のほうが多い。かなり抑えているのではないか、とすら思う。
整えられた歌が並び、心を出すというより、短歌を出しているというか、短歌のために歌があるきらいがある。
一般的には、それはいいことかもしれないが、個人的には何か破れている歌に惹かれている。
次は僕が、この歌は破れているな、と思って惹かれた歌だ。
ただそこに落ちてゐたから少年は「デカビタ」の瓶投げて壊した
歩けないのは杖がないからさうだよね杖さへあれば杖さがさうね一首目は、迫力がある。歌集中でも、特に色の違う歌だと思う。
二首目は、母と母を病院へ見舞っている<わたし>という関係の一連の中の一首。初句以外は定型におさまっているが、口語の作用もあって、心があふれてしまった、と読める歌。
また他に時間を越える感覚の歌にも惹かれた。
わたくしを産みたりし夜の雷の鳴りやまざるをふと言ひにけり
にはさきの小春菊に陽はさしていつの日たれかわれを偲ばむ一首目は、過去のある夜の雷のことだが、それが時間を越えて、今も鳴っているような、そういう時間の越え方がある。
二首目は、今から未来へ時間を越えようとする歌。わたしがいなくなっても、小春菊にさす陽のような透明さでわたしの存在があることを願う歌。
いい歌と思う。
以上、中途半端に書きっぱなしですが、ここいらで。
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