空襲に焼かれて炭化せし公孫樹こすれば今も手が黒くなるこの歌のポイントは、「今も」。現在形で歌われているところである。
(藤間明世)【短歌人 11月号 会員2 102頁】
「空襲」は広辞苑で書かれているとおり、
<航空機から機関砲・爆弾・焼夷弾・ミサイルなどで地上目標を襲撃すること。>
のみを意味せず、どうしようもなく「あの戦争」を呼んでしまう。
「あの戦争」とは、第二次世界大戦=太平洋戦争である。
歌われている「公孫樹」は現実空間の公孫樹ではなく、作中主体の内面空間に立つ公孫樹と読む。
あの時、「あの戦争」の最中に焼かれた現実の公孫樹が、戦後六十年余り経っても、作中主体の内面空間に、目の前にくっきりと立っている。あの時に、焼かれたままの状態で。
(おそらく)触れたくはないはずなのに、触れてしまうのは、悪夢と同じで、事態は一向に好転せず、意志を無視してそのような状況に置かれてしまうからだ。(多くの人にとって「あの戦争」とはそのようなものであったに違いない)
そしてついに触れてしまうと、予想していたようにその手は「黒く」なってしまう。
その幻視を作中主体は、繰り返し見る、というより体験する。
この繰り返しの果てしなさが、「今も手が黒くなる」という表現になる。
いつまで経っても過去にならないのだ。
と、ここまで書いて僕は「公孫樹 空襲」でネットに検索をかけてみた。
すると、実際に東京大空襲で焼かれたことにより有名になった公孫樹があるようだ。
となると、この「公孫樹」は作者の個人的な体験、記憶ではなく(と思っていたのだが)、もっと広い社会的な「公孫樹」なのかもしれない。
残念だが、そうなるとこの歌は一挙に、おもしろくなくなる。
社会的に在る情報を元に、作られた歌のように思えてしまう。
実際のことは作者でなければわからないが、僕が感動するのは、知ることができない(他人の)ごくごく個人的な想いに、短歌(言葉)を通じて、かすかでも触れたように思えるときなのだから。
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