短歌人を読む

結社誌「短歌人」に掲載された歌を読んで感想を書きます



2011年1月26日水曜日

まだ忘れてはいけないという

「完熟」のはずのプラムが酸っぱくてまだ忘れてはいけないという
(梶原治美)【短歌人1月号 会員2 105頁】

この歌はよい歌です。
読みの空間みたいなものがぽっと空いていて、そこにおのおのが入り込めばいいです。
たとえばそれは歌の「酸っぱくて/まだ忘れては」の「/」の部分の飛んでいる間に、それぞれが言葉で橋をかけるということです。

では僕なりに読んでいきましょう。
普通に言葉のつながりで考えると(a)「プラムが酸っぱくてまだ忘れてはいけない」というのは何だかおかしい感じがする。意味が通らない。
もし次のようなら、意味は通る。
(b)「プラムが酸っぱいことを忘れてはいけない」
プラムには甘いものもある、という反論もあるかもしれないけど、言葉の意味のつながり方として、(b)は正しいと感じる。

(a)と(b)の違いを見ると、(a)は「(酸っぱ)くてまだ」、(b)は「(酸っぱ)いことを」となっているところですね。
この違いが「意味が通らない感じ」と「意味が通る感じ」を分けているわけです。
それは、なぜかなあと考えます。
(b)においては、忘れてはいけないことは、はっきりとわかります。
国語の問題で、(b)の場合に「この文で忘れてはいけないことは何か?」とあったら「プラムが酸っぱいこと」と書けばマルをもらえます。
しかし(a)の場合は、どうでしょうか。
答えは難しいですね。
つまり、この歌においては何を忘れてはいけないのか、ということが表に出ていない。
「酸っぱくてまだ忘れては」の「くてまだ」の何気ない接続の中に隠されているわけです。
これはこの歌の魅力でもあります。言葉で表現すれば「霧の中のような」「浮いているような」不思議な感じがするわけです。

だから次に(霧の中をさまようように)考えるのは、何を忘れてはいけないのか、ということです。

歌の前半を見てみましょう。
「完熟」のはずのプラムが酸っぱくて
これはどういうことなのか。
僕はこれを「裏切り」と考えます。つまり、作中主体は、唐突に思ってもいなかった裏切りにあっている。
後半の「まだ忘れては」の「まだ」。
この「まだ」を考えると、作中主体は以前にも、同じような裏切りにあっている。
そのことを「忘れてはいけないという」。
この「いう」も不思議な感じがする。
プラムがそう言っているともとれるけれど、これは「記憶」がそう言っていると読みたい。
この場合、「記憶」は「私」よりも少し大きいもの。「私」は現在にしか存在しない点のようなものだけど「記憶」はそれを包む。
「忘れてはいけない」と記憶に作中主体は語りかけられる。

で。
歌意が「前にも酸っぱいプラムを食べたことがあるんだから、忘れてはいけないよ」というのはちょっと違う感じがするし、あんまりだ。

長くなってしまっているので、駆け足になるけど「完熟」は、いわゆる満たされた状態、たとえば幸福の状態を暗示する。
作中主体は、今、幸福の中にいて、その日常の中で、「完熟」のプラムを買った。食べてみると、酸っぱかった。
この些細な出来事が作中主体を揺らす。このプラムの出来事が、過去の出来事X(→記憶)に結びつく。その出来事Xとこのプラムの出来事には相似の関係がある。
出来事Xとはつまり、過去に幸福(≒完熟)だったことがあり、それが裏切られたこと。
人生の教訓めいているが、幸福の中にいるときこそ、その幸福が破られるということ。
こうあってほしいと願っていることが、往々にしてそうはならなということ。
今日あげた歌には、直接は歌わずともこれらのことが隠されています(もしこの内容をストレートに歌ったら、ただの教訓を言ったつまらない歌になる可能性が高い)。

このことを「まだ忘れてはいけない」と作中主体は告げられるわけです。
そして作中主体は、幸福のすぐそばに、幸福でないことがあるということを、これからあるかもしれないということを、うなづくように、覚悟する。

そういう歌ではないかと思うんですね、僕は。





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